メッセージ - エッサイの根から流れ出て来る聖霊の油(イザヤ11:1-5)
主日礼拝
エッサイの根から流れ出て来る聖霊の油(イザヤ11:1-5)
Youtube動画 / 音声
English Service
Youtube動画 / 音声
成田エクレシア礼拝 音声
週報/メッセージ(説教)概要
私達も乙女マリヤのように、聖霊によってイエス様を内に宿し、そして彼が私達の内で素晴らしい働きをして下さる事を、この待降節の時、学んでいる。エッサイの根から出た新芽・イエス様に接ぎ木された私達へと流れてくる聖霊の油は、どのような作用を及ぼし、広がって行くのかを、今回もイザヤ書から学びたい。
イエス様はナザレ人と呼ばれているが、エッサイの「根株」と訳されたヘブライ語「ネツァル」は、切り倒された切株から出てきた新芽を意味する。それは太い根が吸い上げる養分を一身に受け、元を上回る大木へ成長して行く力を内在している。ダビデ王家は、代を下るごとに悪くなって行ったが、エッサイの根株から出たネツァル・イエス様の王国はそれとは違い、純粋で清い枝が、前を遥かに凌ぐ勢いで広がって行く。
現代の私達もそこに接ぎ木され、その豊かな恩恵にあずかって、愛、喜び、平安に溢れる、新しいいのちがみなぎって行く。大祭司キリストに注がれた聖霊の油が、その頭から肢体へと流れていくごとくに、彼に接ぎ木されてその交わりへと入った私達にも、流れ滴って来るのだ。(詩篇133篇)
キリスト者が悪霊や病を追い出すのも祝福するのも、「イエスの名によって」だが、それはイエス様の御名を信じる私達に、彼に注がれた聖霊の油が流れ滴って来るからで、決してキリスト抜きにできる事ではない。
イエス様に接ぎ木された人は、知恵と悟りの霊、思慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊が流れて来る(2節)。そして、主を恐れる事を喜びとし、目や耳で判断せず主の霊によって物事を見抜くため、人間関係や、ビジネスにおいて、正しい判断が出来るようになり、人生の道で誤る事が無くなって行く。(3節)
そして「口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す」(4節)とある通り、主を軽んじる者、好んで悪辣な事をする者、いのちと秩序を阻害するような「悪魔のわざ」に対しては、私達も主イエス・キリストの御名によってむちを打ち、御霊による御言葉の剣でそのわざを抹殺できる。また、主イエスの名による祈りによって、国や世界情勢を動かし、荒れる天候や大地に平安をもたらす事が出来るのだ。
もしこの恩恵に預かりたいのなら、エッサイの根株から出た新芽・イエス様に繋がらなくてはならない。
世の中では、超能力的なパワーが与えられて好き放題に出来る事を夢見させる映画やアニメが流行っているが、聖霊由来のパワーを、それと同じに勘違いしてはならない。私達の生き方は、それらと真逆である。
主の霊が授けられるのは「主のしもべ」に対してである(イザヤ42:1)。イエス様は、本質的には王の王、圧倒的な支配者であるが、生き方は御父の言葉に100%従順する「しもべ」だった。私達も同様に、本質は王であり、祭司であるが、生き方は、主の御言葉に100%従う「しもべ」として生きるべきなのだ。
主の霊と主のことばは、「そむきの罪を悔い改める者」の所に来る(イザヤ59:20-21)。もし悔い改めずに罪を犯し続けるなら、前回学んだ通り、バッサリ刈り取られ、火に投げ込まれてしまう。しかし御言葉に背く事をやめ、悔い改めて、主の霊と主の言葉に生きる人には、イザヤ60章以降の幸いが与えられる。
イザヤ60:1-3には、主に照らされ、主の光を国々に届ける者の役割と性質が書いてある。私達が主に接ぎ木されて「世の光」となったら、国々が、王たちが、光となった私達に照らされ歩むようになる。
もはや私達が世や王達を追いかける必要はなくなり、逆に、彼らの方が、私達を追いかけて来るようになる。
イザヤ61章には、イエス様が会堂で引用した通り、イエス様のご性質が記されている。(ルカ4:18-19)
それはイエス様に接ぎ木された私達にも、聖霊の油が流れ込んで来る故、ここに記されている権威が与えられ、その働きをするようになって行く。私達もイエス様のように、貧しい者に福音を宣べ伝え、心痛む人々を癒し、捕われ人に釈放を告げ、主の恵みの年と、主の報復の日とを告げ、全て悲しむ者を慰め、主の民の中の悲しむ者に喜びを与え、灰に代えて冠を与え、悲しみに代えて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、賛美の衣を与えさせる働きをするようになる。(イザヤ61:1-3)
荒れた所を再建する者となり、私達の羊や畑の面倒は他国人が見るようになり、「主の祭司」ととなえられ、神に仕える者と呼ばれ、国々の力を食い尽くし、その富を誇る者とされる。また、以前の恥に代えて二倍のもの所有し、とこしえの喜びが私達のものとなる(同4-7節)。人々が私達の祝福された様を見るに、「まことに主に祝福された子孫だ」と誰もが認め、そうして主に栄光が捧げられるのである。(同8-9節)
私達は主を信じた時、エッサイの根株へと接ぎ木され、そこから流れ来る豊かないのちに満たされた。
このエッサイの根株がさらに広がっていくために、大いに用いられて行く皆さんでありますように!