メッセージ - 主のしもべこそ手に入れる事ができるエデン(詩篇36篇)
主のしもべこそ手に入れる事ができるエデン(詩篇36篇)
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『聖歌隊の指揮者によってうたわせた主のしもべダビデの歌』(詩篇36篇表題)
この詩篇の表題で、ダビデは自らを「主のしもべダビデ(レ・エベド・ヤーウェ・レ・ダヴィド)」と表明している。
「しもべ」とは「主人」ありきの存在であるが、私達・全ての信仰者にとって、主なる神が主人であり、私達はしのしもべである。
主のしもべである事には、特別な意味がある。それでダビデも、初代教会の人々も、自分は主のしもべである事を宣言した。
使徒4:24 一同はこれを聞くと、口をそろえて、神にむかい声をあげて言った、「天と地と海と、その中のすべてのものとの造りぬしなる主よ。
4:25 あなたは、わたしたちの先祖、あなたの僕ダビデの口をとおして、聖霊によって、こう仰せになりました、/『なぜ、異邦人らは、騒ぎ立ち、/もろもろの民は、むなしいことを図り、
4:26 地上の王たちは、立ちかまえ、/支配者たちは、党を組んで、/主とそのキリストとに逆らったのか』。
迫害を受けた初代教会の聖徒達は、「わたしたちの先祖、あなたの僕ダビデ」と言って、自分達を「僕ダビデ」の子孫と位置づけた。
すなわち、自分達も王であり、そして僕である、と。
使徒4:27 まことに、ヘロデとポンテオ・ピラトとは、異邦人らやイスラエルの民と一緒になって、この都に集まり、あなたから油を注がれた聖なる僕イエスに逆らい、
4:28 み手とみ旨とによって、あらかじめ定められていたことを、なし遂げたのです。
彼らは続いて、彼らの主イエス様を「僕イエス」と告白した。
それは、主であるイエス様は、王であり、父なる神の御子でありながらも、父なる神に対しては「僕」の立場を全うされたからだ。
使徒4:29 主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。
4:30 そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい」。
4:31 彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した。
自分たちもまた「僕」ダビデに繋がる者であり、「僕」イエス様の御名を宣言した。
すると彼らに、しるしとして、聖霊の満たしと、神の御言葉を語る事の大胆さが与えられた。
僕とは主人の言葉に100%従う者である。
その立ち位置に立つ時、私達も聖霊の充満が与えられるのだ。
聖霊充満とは、本人自身が、聖霊の導きに従順する決心が充満する時、与えられる。だから、聖霊の不思議な力を利用して自分が何か特別な存在になりたい、と、自己中心的な願望をもって「ください、ください」と祈っても、与えられないのだ。
主なる神に従順する事なしに、超自然的な力を得て、身勝手に行使したいとするなら、その人は「魔術」を求める者である。
詩篇36篇は、悪者の道と、主のしもべの幸いな道、そしてダビデの祈りという3つの部分によって成り立っており、1-4節では、「しもべ」の逆を行く悪しき達の特徴が示されている。
詩篇36:1 とがは悪しき者にむかい、その心のうちに「言う(ネウム)」。その目の前に神を恐れる恐れはない。
「言う」と訳された語ネウムは聖書にたくさん出てくるが、特に、イザヤ・エレミヤ書以降の預言書に「主の御告げ(ネウム・ヤーウェ)」として頻繁に出てくる。
主を恐れ敬う者にとっては「主の御告げ」が行動規範であるのに対し、悪しき者にとっては、「とが」が、彼らの行動規範なのだ。
詩篇36:2 彼は自分の不義があらわされないため、また憎まれないために、みずからその目でおもねる。
彼らは、目で見える事が全てである。
だから、見えない神に対する恐れはなく、そして、誰も見ていない・誰にもバレないなら、どんなに悪辣な事をしても全く問題なし、と思っているのだ。
詩篇36:3 その口の言葉はよこしまと欺きである。彼は知恵を得ることと、善を行う事とをやめた。
36:4 彼はその床の上でよこしまな事をたくらみ、よからぬ道に身をおいて、悪をきらわない。
主を恐れ敬う人は、その口から、自分自身の信仰を混ぜた御言葉を語りだす。
しかし悪人は、その口からよこしまと欺きが溢れ流れ出てくる。
また彼らは、主から知恵を得ようとする心も、善を行う気持ちも、止めてしまった。
そのような彼らは、夜、一日の終わりの寝床でさえ、悪を計る。主を恐れる人は御言葉に固く立とうとするように、彼らはよくない道に固く立っているのだ。
それは「主のしもべ」とは真逆の道、自分を自分の主人とする「悪者」の道であり、自分の背丈以上のことは出来ないし、また自分の背丈以上に得る事も出来ない。
そうして自分の身の丈ほどの人生が終わってしまったら、もうそれで永遠におしまいである。
それに対し、5節から9節に、主のしもべが受けるさいわいが記されている。
詩篇36:5 主よ、あなたのいつくしみは天にまで及び、あなたのまことは雲にまで及ぶ。
36:6 あなたの義は神の山のごとく、あなたのさばきは大きな淵のようだ。主よ、あなたは人と獣とを救われる。
5-9節の主人公は「あなた」、すなわち彼らの主人である神、主である。
主のいつくしみ、主のまことは、天よりも雲よりも高い。
そして主の義と、悪人を正しく主のさばき、そして、そこから受ける莫大な恩恵を、主のしもべは、大いに享受できる。
悪人は、自分の身の丈ほどしか得られないのに対し、主のしもべが受ける恩恵は、天よりも雲よりも高いのだ。
詩篇36:7 神よ、あなたのいつくしみはいかに尊いことでしょう。人の子らはあなたの翼のかげに避け所を得、
主のしもべとなる事の報酬は、主が御翼を広げ、その陰に宿らせて下さる事である。
主は彼らを狩人のわなから、恐ろしい疫病から救い出され、ご自分の羽でおおわれ、その人は夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。
暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも、千人がかたわらに、万人が右手に倒れても、それらの災いは近づかない。
このような、詩篇91篇に記されているあらゆる幸いが、主のしもべのものとなるのだ。
詩篇36:8 あなたの家の豊かなのによって飽き足りる。あなたはその楽しみ(エデン)の川の水を彼らに飲ませられる。
36:9 いのちの泉はあなたのもとにあり、われらはあなたの光によって光を見る。
主はその言葉に従順する「しもべ」を、あらゆる良きもので満ちたらせ、エデンの川の水を飲ませてくださるという。
エデンにおいては全ての必要が満たされている。
エデンでは、何万本あるか分からない程の色々な種類の実りがあり、主は、その全てから、思いのまま取って食べて良い、と言われたのだが、その中で唯一、取って食べてはならないのは、善悪を知る知識の木だった。(創世記2:16-17)
私達の人生がエデンのように楽園のようになるためには、しもべであり続ける事、すなわち、自分の善悪判断を捨て、主の御言葉どおり従順し続ける事である。
10節以降は、ダビデの祈りである。
詩篇36:10 どうか、あなたを知る者に絶えずいつくしみを施し、心の直き者に絶えず救を施してください。
彼は、2つが注がれるよう、主に求めた。すなわち、主を知る者に、主の恵みが注がれる事と、心に偽りの無い者に、主の義が注がれる事を。
恵みと義は、いずれも主に由来するものであって、決して、自分由来ではない。
主の義は、主に対しては心になんの後ろめたい所が無い人、やましくて隠したい所が無い人にこそ、現して下さる。だからアダムとエバのように、自分のとがを隠す者は、義とされず、エデンから追い出されてしまった。
詩篇36:11 高ぶる者の足がわたしを踏み、悪しき者の手がわたしを追い出すことを/ゆるさないでください。
36:12 悪を行う者はそこに倒れ、彼らは打ち伏せられて、起きあがることはできない。
ダビデは成功した時、高ぶる者の足に追いつかれてしまい、彼の忠実な部下の妻に手を出し、その部下を謀殺してしまった。
ダビデにとって人生の最大の敵は、ペリシテ人でもサウルでもなく、成功した時に忍び寄ってくる「高ぶり」だった。それが彼の後半人生を、非常に苦々しいものにしてしまった。
私達も祈るべきである。「高ぶる者の足がわたしを踏み、悪しき者の手がわたしを追い出すことを/ゆるさないでください。」と。