メッセージ - 集会での詩篇(詩篇40篇)
集会での詩篇(詩篇40篇)
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主に心を向け、耳を傾ける人が、いかに幸いであるか。ダビデはその経験を、集会の中で宣言している。
聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌
40:1 わたしは耐え忍んで主を待ち望んだ。主は耳を傾けて、わたしの叫びを聞かれた。
40:2 主はわたしを滅びの穴から、泥の沼から引きあげて、わたしの足を岩の上におき、わたしの歩みをたしかにされた。
40:3 主は新しい歌をわたしの口に授け、われらの神にささげるさんびの歌を/わたしの口に授けられた。多くの人はこれを見て恐れ、かつ主に信頼するであろう。
主は、どのような人を、滅びの穴や泥沼から引きあげ、足を岩の上におき、歩みを確かにされるのか。
それは、耐え忍んで主を待ち望む人であると書いてある。
また主は、どのような人の祈りに、耳を傾けられるか。
それは、以下に記されている事を、心して行う人である。
40:4 主をおのが頼みとする人、高ぶる者にたよらず、偽りの神に迷う者にたよらない人はさいわいである。
40:5 わが神、主よ、あなたのくすしきみわざと、われらを思うみおもいとは多くて、くらべうるものはない。わたしはこれを語り述べようとしても/多くて数えることはできない。
主がその祈りを聞いてくださる人とは、自分の道を、罪や虚しい事へと向けない人、主の良くして下さった事と恵みのわざを思い起こし、それを忘れない人だ。
そして6-10節は、この詩篇の心臓部とも言えるべき所である。
特に6節は、旧新約の色々な所で引用され、また、これと同じ事は色々な箇所に記されている。
詩篇40:6 あなたはいけにえと供え物とを喜ばれない。あなたはわたしの耳を開かれた。あなたは燔祭と罪祭とを求められない。
ヘブル10:5 あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、/わたしのために、からだを備えて下さった。
詩篇では「耳を開かれた」となっているが、ヘブル書での引用では「からだを備えて下さった」となっている。
耳は、それほど礼拝において重要な器官のだ。
たとえ体が礼拝に参加していても、耳を御言葉へと傾けないなら、それは無意味である。
耳を傾けること、それこそ私達の最高のいけにえであり、主が求められる事だと、サムエルも言っている。(1サムエル記15:22)
詩篇40:7 その時わたしは言った、「見よ、わたしはまいります。書の巻に、わたしのためにしるされています。
40:8 わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」と。
書の巻、すなわち聖書に、まさしくわたしたちの事が記されている!
このとても不思議な体験を、私達クリスチャンはしている。
ダビデは1節で、主はわたしの叫びを聞かれた、と言っているが、主がその祈りを聞いてくださる人とは、主に耳を傾けて聞く人、主のことばを求め、その通りを守り行う人だ。
また、「あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」とダビデが言っている通り、御言葉を心の内に刻みつける人、すなわちテフィリンする人である。
詩篇40:9 わたしは大いなる集会で、「救についての喜びのおとずれ(ツェデク:義)」を告げ示しました。見よ、わたしはくちびるを閉じませんでした。主よ、あなたはこれをご存じです。
40:10 わたしはあなたの「救(ツェデカ:義)」を心のうちに隠しおかず、あなたのまことと救とを「告げ示し(アマール、KJV: declared)」ました。わたしはあなたのいつくしみとまこととを/大いなる集会に隠しませんでした。
口語訳で「救についての喜びのおとずれ」と訳された語は、ヘブライ語では「ツェデク(義)」、英語のKJVでは「righteousness」の一語である。
ダビデは、主の義について、心の中に隠しとどめておかず、大集会を前に大声で告げ知らせた。
イエス様が、ともしびは枡の下には置かない、と言われたように、私達も、主が良くして下さった事を、心に秘めて置く事なく、人々に告げ知らせるべきである。
11節以降は、ダビデの祈りと願いになる。
詩篇40:11 主よ、あなたのあわれみをわたしに惜しまず、あなたのいつくしみとまこととをもって/常にわたしをお守りください。
「あなたのあわれみ」「あなたのいつくしみとまこと」とある通り、憐れみ、恵み、まことは、主から来るのであって、自分から来るのではない。これらが欲しいなら、ダビデのように、主に求めるべきである。
詩篇40:12 数えがたい災がわたしを囲み、わたしの不義がわたしに追い迫って、物見ることができないまでになりました。それはわたしの頭の毛よりも多く、わたしの心は消えうせるばかりになりました。
私達も、自分の身から出た錆的な災いに、追いつかれてしまう事が多々ある。
その場合は、ダビデのように、ただ主の憐れみと恵み、まことが成る事を祈るしかない。
詩篇40:13 主よ、みこころならばわたしをお救いください。主よ、すみやかにわたしをお助けください。
40:14 わたしのいのちを奪おうと尋ね求める者どもを/ことごとく恥じあわてさせてください。わたしのそこなわれることを願う者どもを/うしろに退かせ、恥を負わせてください。
40:15 わたしにむかって「あはぁ、あはぁ」と言う者どもを/自分の恥によって恐れおののかせてください。
ダビデは特に、敵から救われる事を、主に求めている。
敵から救っていただくためには、すべてを主に持っていく事である。
自分の犯した罪、自分の弱さ、どうしようもなさを。そして主の御胸に反した所が示されたなら、それを悔いて改める事である。
誰でも、自分の犯してきた罪々は、自分の髪よりも多い。
主に持っていかないなら、そして悔い改めて主にきれいにしていただかないなら、それらは追いついて絡みつき、見上げる事すら出来なくなって、心が消え失せるばかりになってしまう。
だからダビデは、主に尋ね求めるように、そして自分を助けて下さるようにと、この祈りを閉じている。
詩篇40:16 しかし、すべてあなたを尋ね求める者は/あなたによって喜び楽しむように。あなたの救を愛する者は/常に「主は大いなるかな」ととなえるように。
40:17 わたしは貧しく、かつ乏しい。しかし主はわたしをかえりみられます。あなたはわが助け、わが救主です。わが神よ、ためらわないでください。
主にすべてを打ち明け、悔い改めるなら、主は豊かに赦して下さる。
この素晴らしい主を体験し、多くの人々の前でこの素晴らしい主をあかししていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!