メッセージ - 鹿が水の流れを慕うごとく(詩篇42篇)
鹿が水の流れを慕うごとく(詩篇42篇)
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詩篇42篇からは詩篇の第二巻にはいる。
詩篇の第二巻のテーマは、開放と贖いについてであり、モーセ五書の出エジプト記に当たる。
モーセ五書は神の命令の書であるが、それに対し詩篇五巻は、律法の生活適用篇で、いかに具体的に日常生活の中で神との関わりを持っていくべきか、このようなケースではどう祈って対処して行くべきか、記されている。
出エジプト記の最初は、奴隷状態にあるイスラエルから始まった。
それと同様、詩篇第二巻も同様に、神の宮から遠く離れて敵に好き放題されている状況から、主を慕いあえいでいる作者の心情吐露の詩によって始まる。
詩篇42篇表題「聖歌隊の指揮者によってうたわせたコラの子のマスキールの歌」
マスキールとは、32篇8節の「悟りを与え」と同じ言葉であり、またアモス書5:13の「賢い者」と同語であることから,「教訓的な」内容の詩篇という理解もある。(聖書注解)
コラの子による、と表題にあるが、学者達の間では、作者はダビデで、サウル王あるいはアブシャロムによって追い回されている状況、とも考えられている。
詩篇42:1 神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。
作者は、何らかの理由で、主を礼拝する場所・エルサレムから、かなり地にいて、礼拝が出来ない状況の中から、主を礼拝したいという切望があらわれている。
ダビデがアブシャロムに追われている場面であるとするなら、ちょうど第二サムエル記15章の状況であろう。
2サムエル記15:24 そしてアビヤタルも上ってきた。見よ、ザドクおよび彼と共にいるすべてのレビびともまた、神の契約の箱をかいてきた。彼らは神の箱をおろして、民がことごとく町を出てしまうのを待った。
15:25 そこで王はザドクに言った、「神の箱を町にかきもどすがよい。もしわたしが主の前に恵みを得るならば、主はわたしを連れ帰って、わたしにその箱とそのすまいとを見させてくださるであろう。
ダビデはアブシャロムにエルサレムを明渡して都落ちして行くが、彼は信仰によって、必ずこの場所に再び戻り、再び主の箱の前で礼拝が捧げられる事を信じて、箱をエルサレムに戻すように指示した。
彼は、絶望はしていなかった。ただ、全て自分の状況を、全面的に主に委ね、主に望みを置いたのだ。
詩篇42:2 わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。いつ、わたしは行って神のみ顔を/見ることができるだろうか。
42:3 人々がひねもすわたしにむかって/「おまえの神はどこにいるのか」と言いつづける間は/わたしの涙は昼も夜もわたしの食物であった。
ダビデは、アブシャロムから逃げる道すがら、ずっとシムイという者に呪いの言葉を浴びせ続けられ、石を投げられ続けた。
ダビデはその中でも告白している。
2サムエル記16:11 ダビデはアビシャイと彼のすべての家来たちに言った。「見よ。私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらっている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。
16:12 たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。」
ダビデは、自分が好き放題に呪われている状況にあっても、全てを見て聞いて知っておられ、そして、やがて正しく報いて下さる主に、全てを委ねた。
詩篇42:4 わたしはかつて祭を守る多くの人と共に/群れをなして行き、喜びと感謝の歌をもって彼らを神の家に導いた。今これらの事を思い起して、わが魂をそそぎ出すのである。
主を喜ぶ兄弟姉妹と一緒に、主の宮にのぼる時のうきうき感は、本当に、主を慕い求めている人にはよくわかる喜びの感覚である。ダビデもまさにそうだったし、全て礼拝する事に喜びを見出す人にはそうである。
そして、その慕い求める主が、礼拝できない時の飢え渇きがいかほどであるか、ちょうど、鹿が、水が無くて谷川を慕い求めるかのような感覚である事も、聖徒達が共有できる感覚である。
42:5 わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。
彼はうなだれ、心は思い乱れている状況であるが、彼自身ではその心の状況を、そのまま放置する事はしていない。
自分のたましいに向かって「神を待ち望め」と言い聞かせている。
確かに心配やいらだちで心乱れている状況では、賛美は到底自分からは出てこない状況だが、そんな状況だからこそ主をほめたたえよう、と、彼は絞り出すように告白している。
私達も自分のたましいを、主にあって支配していくべきである。
乱れた心は、そのまま放置するのではなく、自らのたましいへの言い聞かせによって支配する事が、信仰者には必要だ。なぜなら、信仰告白した内容によって、状況は動くからだ。
詩篇42:6 わが魂はわたしのうちにうなだれる。それで、わたしはヨルダンの地から、またヘルモンから、ミザルの山からあなたを思い起す。
42:7 あなたの大滝の響きによって淵々呼びこたえ、あなたの波、あなたの大波は/ことごとくわたしの上を越えていった。
この詩篇の作者は、体は宮からはなれ、礼拝に参加できないが、彼がいるヘルモンの山々に流れる川や滝から、また昼と夜の諸々の自然現象の中から、主の御手によるわざを見出して、主に心を向け思いを馳せている。
詩篇42:8 昼には、主はそのいつくしみをほどこし、夜には、その歌すなわちわがいのちの神にささげる/祈がわたしと共にある。
42:9 わたしはわが岩なる神に言う、「何ゆえわたしをお忘れになりましたか。何ゆえわたしは敵のしえたげによって/悲しみ歩くのですか」と。
42:10 わたしのあだは骨も砕けるばかりに/わたしをののしり、ひねもすわたしにむかって/「おまえの神はどこにいるのか」と言う。
敵は相変わらず彼を悩ませている状況である。
しかし彼は、昼には主の恵みを覚え、夜には主へと捧げる歌をささげ、主を「わが岩なる神」と言って切に求めている。
主が必ず礼拝の場へと戻してくださる。
その確信を奮い立たせ、そして信仰の宣言で祈りを終わらせる。
詩篇42:11 わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。
主は、主を呼び求める神の民が虐げられたまま放って置かれる事は、なさらない。その祈りを聞き、必ず御手を伸ばして助けてくださる。
出エジプト記がまさにそうであった。
出エジプト記は、主へ叫び求める声を主は聞いてくださり、神の民の敵にさばきを降し、礼拝へと導き、そして、礼拝する場所が建設されて終わった。
神の民は、礼拝する民である。
礼拝の場で、神との出会うことを切望する神の民の呼び声を、主は必ず聞いてくださる。