メッセージ - 苦しめられている最中にあっても、圧倒的勝利者となる私達キリスト者(詩篇44篇)
苦しめられている最中にあっても、圧倒的勝利者となる私達キリスト者(詩篇44篇)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 詩篇
- 執筆 :
- pastor 2019-2-1 15:58
苦しめられている最中にあっても、圧倒的勝利者となる私達キリスト者(詩篇44篇)
Youtube動画
メッセージ音声
_______________
詩篇44篇は、三つのパートに分けられる。
第一のパートでは、トーラーと先祖達からの口伝から聞いた、主の御力の宣言と信仰告白であり、第二のパートでは、自分たちが苦しめられ卑しめられている事を主に訴えており、第三のパートでは、そのような現状から救い、購って下さる事を願い求めている。
今、災いに遭って苦しんでいるとするなら、その原因は即座に「その人の罪のゆえだ」、と、ヨブの友人たちのように思いがちであるが、必ずしもそうとは限らない。
正しい事をしているのに、主との関係は良好であるにもかかわらず、迫害され苦しめられる事がある。そして、その事が起こるとするならば、それは、主の許可の元で行われているのだ。
特に黙示録にその記述がある。
終わりの時代、サタンの配下の獣に権威が「与えられ」、また聖徒に戦いをいどんでこれに勝つことを「許され」、さらに、すべての部族、民族、国語、国民を支配する権威も、「与えられる」。
このような、神の民からすれば望ましくない権威は、神が許可されるからこそ、彼らにそれが可能なのである。(黙示録13章)
これは決して、神がいたずらにサタンの勢力を用いて、聖徒達を苦しませる事が目的ではない。
人には全て、自由意思が与えられている。
その自由意思を用いて、イエス・キリストを主として認め、神の側につく事が出来るし、あるいは、イエス・キリストが主である事を拒否し、自分の欲望のままを生き、結果的に、サタンの側につく事もできる。
サタンの配下につく者達は、その自由意思を活用しなければ、聖徒に戦いは挑まないし、彼らを殺す事もしない。しかし、もし彼らが聖徒達に戦いを仕掛け、殺そうとするなら、それは神から「許されている」事なので、それは成功する。
しかし、こうして与えられている自由意志を用いて、敢えて、聖徒達に戦いを仕掛け、聖徒達を意図的に殺したとするならば、もう彼らには弁解の余地はなくなる。
彼らが悪い実を結んだ「毒麦」である事が明らかにされたのであり、それによって、彼らが永遠の業火へ投げ入れられる事が確定するのである。
そして、死に至るまでも忠実を尽くした聖徒には、永遠のいのちと決してしぼむ事の無い栄光の冠の報いが確定するのである。
詩篇44:1 神よ、いにしえ、われらの先祖たちの日に、あなたがなされたみわざを/彼らがわれらに語ったのを耳で聞きました。
44:2 すなわちあなたはみ手をもって、もろもろの国民を/追い払ってわれらの先祖たちを植え、またもろもろの民を悩まして、われらの先祖たちをふえ広がらせられました。
44:3 彼らは自分のつるぎによって国を獲たのでなく、また自分の腕によって勝利を得たのでもありません。ただあなたの右の手、あなたの腕、あなたのみ顔の光によるのでした。あなたが彼らを恵まれたからです。
作者はまず、出エジプトの時代に主がなさった不思議を引き出して、主が成されたみわざに思いを馳せている。
そして3節では、この救いが成就したのは、自分の手によるのではなく、主の御腕のわざである、と告白している。
そう、主は力強きお方である。
詩篇44:4 あなたはわが王、わが神、ヤコブのために勝利(イエシュアハ)を定められる方です。
ここで「勝利」と訳されたヘブライ語は「イエシュアハ」、「主は救い」という意味であり、同時にイエス様の名前そのものである。
ここに、イエス様がいるのだ。
ヤコブは、他人のかかとを掴んで人から奪いながら生きる者だが、彼の名は後にイスラエルになった。
神は、ヤコブのためにイエシュアハ(イエス様)を定められる方である、と書いてある。それ故、ヤコブを祝福しイスラエルの名を与えたのは、イエス様だと思われる。
詩篇44:5 われらはあなたによって、あだを押し倒し、われらに立ちむかう者を、み名によって踏みにじるのです。
44:6 わたしは自分の弓を頼まず、わたしのつるぎもまた、わたしを救うことができないからです。
44:7 しかしあなたはわれらをあだから救い、われらを憎む者をはずかしめられました。
44:8 われらは常に神によって誇り、とこしえにあなたのみ名に感謝するでしょう。〔セラ
私達も、イエス様の御名によって敵を倒し、イエス様の御名によって悪魔サタンを踏みにじるのである。
私達は、自分の力や経験、ことばの力、世的なやり方によって、自分を救う事は出来ない。
ただイエス様にあってこそ、救いが確定している。ここを離れては、罪に対し、サタンに対し、勝利者として生きる事ができない。
神は確かに力ある御方だ。圧倒的な力をもって敵を根絶やしにする事は、神にはいつでも出来るが、9節以降は、厳しい現状が記されている。
詩篇44:9 ところがあなたはわれらを捨てて恥を負わせ、われらの軍勢と共に出て行かれませんでした。
44:10 あなたがわれらをあだの前から退かせられたので、われらの敵は心のままにかすめ奪いました。
44:11 あなたはわれらをほふられる羊のようにし、またもろもろの国民のなかに散らされました。
44:12 あなたはわずかの金であなたの民を売り、彼らのために高い価を求められませんでした。
44:13 あなたはわれらを隣り人にそしらせ、われらをめぐる者どもに侮らせ、あざけらせられました。
44:14 またもろもろの国民のなかにわれらを笑い草とし、もろもろの民のなかに笑い者とされました。
44:15 わがはずかしめはひねもすわたしの前にあり、恥はわたしの顔をおおいました。
44:16 これはそしる者と、ののしる者の言葉により、敵と、恨みを報いる者のゆえによるのです。
敵が力を増して聖徒達を圧倒する。もし自分たちに神の御前に非があるとするなら、災いは受けて当然であるが、詩篇44篇は、このパターンに当てはまらない。
主に対し誠実であっても、苦難を受け、災いに遭ってる。そういう事が、あるのだ。
コラの子たちは、災いに遭ってはいても、「われらはあなたを忘れず、あなたの契約にそむくことがありませんでした。」と告白している。
詩篇44:17 これらの事が皆われらに臨みましたが、われらはあなたを忘れず、あなたの契約にそむくことがありませんでした。
44:18 われらの心はたじろがず、またわれらの歩みはあなたの道を離れませんでした。
44:19 それでもあなたは山犬(タニーム)の住む所でわれらを砕き、暗やみをもってわれらをおおわれました。
ここで「山犬」と訳された語タニームは、KJVではドラゴンと訳され、他にも蛇、モンスター等の意味もある。
すなわち詩篇44篇の彼らは、ドラゴンの住む所で苦しめられている状況だ。
まさに、黙示録13章と同じ状況であり、そして主はそのような状況を許可する事がある。
その状況で求められる事は、忠実である。
黙示録2:13 わたしはあなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの座がある。あなたは、わたしの名を堅く持ちつづけ、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住んでいるあなたがたの所で殺された時でさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。
神の民が、神の許可の元、サタンに苦しめられる時は、必ず期間が定められている。
サタンとその勢力は、永遠に好き放題できるわけではない事は、先に説明したとおりであり、主は必ずその後、聖なるものには永遠にしぼむ事のない報いを、サタンに属する者達には、永遠のさばきを降される。
詩篇44:20 われらがもしわれらの神の名を忘れ、ほかの神に手を伸べたことがあったならば、
44:21 神はこれを見あらわされないでしょうか。神は心の秘密をも知っておられるからです。
20−21節は仮定法で書かれている。
という事は、彼らは神を忘れたり、他の神へと裏切った事はなかった、という事だ。
詩篇44:22 ところがわれらはあなたのためにひねもす殺されて、ほふられる羊のようにみなされました。
彼らは、「あなた(神)のために」このような災いを受けている、と告白している。
神のために、四六時中悩まされ、ほふられる羊のように見なされる。
それは私達の主イエス様が体験され、そして私達キリスト者にも起こりうる事だ。
しかし、望みを失う必要は一切ない。
そのような困難にあったとしても、新約を生きる私達は、キリストにあって圧倒的勝利者となる希望がある。
ローマ8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。
8:36 「わたしたちはあなたのために終日、/死に定められており、/ほふられる羊のように見られている」/と書いてあるとおりである。
8:37 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。
8:38 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、
8:39 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。
キリスト者が患難に、苦悩に、迫害に、飢えに、裸に、危難に、剣に悩まされる事は、確かにあるが、たとえその最中にあったとしても、圧倒的勝利は私達の側にある。
私達を愛してくださった方の故に。
何者によっても引き離されない、主キリスト・イエスにある神の愛故に!
詩篇44:23 主よ、起きてください。なぜ眠っておられるのですか。目をさましてください。われらをとこしえに捨てないでください。
44:24 なぜあなたはみ顔を隠されるのですか。なぜわれらの悩みと、しえたげを/お忘れになるのですか。
44:25 まことにわれらの魂はかがんで、ちりに伏し、われらのからだは土につきました。
44:26 起きて、われらをお助けください。あなたのいつくしみのゆえに、われらをあがなってください。
詩篇の作者は、最後に、われらを購って下さい、と締めている。
私達は、キリスト・イエスにあって、既に贖われている。
1コリント6:19 あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。
6:20 あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。
私達のいのちは、イエス様によって買い戻された。という事は、私達のこのからだ、このいのちは、もはや私達のものではない、という事である。
そうであるからには、この体を、時間を、能力を、エネルギーを、経済を用いて、神の栄光を表すべきである。
このサタンに支配されてしまっている地上に、神の栄光と支配をもたらして行くために。