メッセージ - 愛する方の手を握って奥の間へと導くまで(雅歌3:1-5)
愛する方の手を握って奥の間へと導くまで(雅歌3:1-5)
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この箇所では、花嫁たる女性が、夜床についても、それでもなお、彼女の愛する方、花婿を探し求める姿がある。
雅歌3:1 わたしは夜、床の上で、わが魂の愛する者をたずねた。わたしは彼をたずねたが、見つからなかった。わたしは彼を呼んだが、答がなかった。
原文では、「私の魂が愛する方」を、私は探しています、とある。
彼女は、夜、床についているが、魂が愛し慕い求め、安息できるお方が、すぐとなりにいない状態である。
この状況は、今、私達が魂が愛するお方・イエス様を慕い求める姿勢にも似ている。
私たちは、夜眠れない時、平安を求めてもなかなか見つからない時、どうすべきか。
雅歌3:2 「わたしは今起きて、町をまわり歩き、街路や広場で、わが魂の愛する者をたずねよう」と、彼をたずねたが、見つからなかった。
彼女は実際に、探しに出かけて行ったが、行った先は「町をまわり歩き、街路や広場」で、そこを探しても、見つからなかった。
私達もまた、御言葉の根拠なしに、あるいは聖霊の助けなしに、真理を探し求めても、見つからない。
彼女のように、ただ通りや広場をフラフラさまよい歩いているようなものである。
そしてもし、イエス様以外に目を向けて、安息を求めようとしても、過去のあの事この事が思い出され、怒りがこみ上げて来たり、悲しい思いを繰り返したり、自分の至らなさを繰り返し見たり、あるいは将来の不安が大きくなったりと、とにかく夜、イエス様以外を思いめぐらすなら、必ず良くない思いが、湧き立っていく。
詩篇63篇に、夜における「正しい思い巡らし方」が記されている。
詩篇ユダの野にあったときによんだダビデの歌
詩篇63:1 神よ、あなたはわたしの神、わたしは切にあなたをたずね求め、わが魂はあなたをかわき望む。水なき、かわき衰えた地にあるように、わが肉体はあなたを慕いこがれる。
63:2 それでわたしはあなたの力と栄えとを見ようと、聖所にあって目をあなたに注いだ。
63:3 あなたのいつくしみは、いのちにもまさるゆえ、わがくちびるはあなたをほめたたえる。
ダビデはこの時、ユダの荒野にいたが、彼の人生の闇夜の時、慕い求めたのは、主だった。
彼は、何を求めて気を失うばかりだったかと言うと「あなたを慕い求めて」気を失うばかりだった、と告白した。
詩篇63:4 わたしは生きながらえる間、あなたをほめ、手をあげて、み名を呼びまつる。
63:5 わたしが床の上であなたを思いだし、夜のふけるままにあなたを深く思うとき、わたしの魂は髄とあぶらとをもって/もてなされるように飽き足り、わたしの口は喜びのくちびるをもって/あなたをほめたたえる。
63:6 (5節に合節)
63:7 あなたはわたしの助けとなられたゆえ、わたしはあなたの翼の陰で喜び歌う。
63:8 わたしの魂はあなたにすがりつき、あなたの右の手はわたしをささえられる。
雅歌の女性が、夜、たましいが慕い求めるお方を探しに行ったように、ダビデもまた主をあえぎ求め、慕い求め、聖所という礼拝の奥の場へと進んだ結果、彼の渇きは癒やされ、不安は取り除かれ、喜びの賛美が溢れるようになった。
そしてダビデは、女性が男性の懐の中で腕にくるまれている時のような安心感を得た。
私達も、夜闇の不安な時は、主を慕い求めるのである。
彼女は慕わしい方を探し求める行動をした結果、町を行き巡る夜回りに見つけられる。
雅歌3:3 町をまわり歩く夜回りたちに出会ったので、「あなたがたは、わが魂の愛する者を見ましたか」と尋ねた。
街を行きめぐる夜回りが私を見つけました。私の愛してる人を見かけになりませんでしたか?
普通ここで夜、夜回りに見つけられたなら、不審者として捉えられるところでしょうけれども、しかし彼女は、正当な探し求め方をしていた。彼女が夜回りに行き当たった後、まもなく、彼女は見つけることになる。彼女の慕い求めている人。この夜回り、見張り人は、一体何者だろうか。
イザヤ書62章の6節から。
"エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。
主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまで、黙っていてはならない。
主は右の手と、力強い腕によって誓われた。「わたしは再びあなたの穀物を、あなたの敵に食物として与えない。あなたの労して作った新しいぶどう酒を、外国人に決して飲ませない。
取り入れをした者がそれを食べて、主をほめたたえ、ぶどうを取り集めた者が、わたしの聖所の庭で、それを飲む。」"
イザヤ書 62章6〜9節
ここにも、見張り人がいた。
彼らに対する命令は、昼も、夜も、決して黙っていてはならない。主に覚えられている者よ、黙り込んではならない。主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまで、黙っていてはならない、というものだった。
主に覚えられている者であり、主が慰めて建て上げ栄誉を回復させるまで、決して黙り込まず、主に叫び続ける者。それは、取り成す者である。
現代の私達にとって、私達が建て直され回復するまで昼も夜も休まずに主に叫び続ける者は、聖霊である。
そして私たちも、黙っていてはならない。この時代の、この国の、見張り人として。
この時代が、この国が、霊的なはずかしめを受けている状況から回復し、建て直されるまで取り成し祈り続けるべきである
3:4 わたしが彼らと別れて行くとすぐ、わが魂の愛する者に出会った。わたしは彼を引き留めて行かせず、ついにわが母の家につれて行き、「わたしを産んだ者のへや(ヘデル・ホラティ)」にはいった。
彼女は、その夜回りの見張り人に会った直後、彼女の慕い求めるお方をついに見つけた。
私達も、主をしたい求めて歩くなら、いつも見張っておられる聖霊が私たちを見つけ、そしてまことの夫であられるキリストの元へと導いてくださる。
主は、全て慕い求めるたましいがいないかどうかを、夜昼見張り、そして彼らに聖霊を遣わして、真の救い主の元へと導いて下さるのだ。
そのようにして、まことのたましいの救い主、イエス様の所へと導かれた私達は、安息を得、さらに私達自身も働き人となって、この国のために、この時代のために、昼となく夜となく、主に祈り求め、執り成して行く祭司となっていくのだ。
彼女は、この御方をつかんで手放さず、ついに「わたしを産んだ者の部屋(ヘデル・ホラティ)」へと導いた。
ヘデルは「(最奥の)小部屋」、ホラティ(原形ハラハ)は「妊婦になる」「身ごもる」の意味である。
彼女は愛する花婿を、女性の最奥の小部屋、いのちを産み出す小部屋へと導いて、そして言う。
3:5 エルサレムの娘たちよ、わたしは、かもしかと野の雌じかをさして、あなたがたに誓い、お願いする、愛のおのずから起るときまでは、ことさらに呼び起すことも、さますこともしないように。
(KJV: I charge you, O ye daughters of Jerusalem, by the roes, and by the hinds of the field, that ye stir not up, nor awake my love, till he please.)
KJVで見ると、「愛」が人格を持っているかのようで、愛なるお方が目覚めたいと思うその時まで、かきたてたり、目覚めさせたりしないで、ずっとそのままで置いてください、というようなニュアンスも感じる。
男性と女性とは、このように愛の営みをし、いのちを生み出す営みをして、代々、いのちを繋いで行って、今、こうして私達がいる。
これは霊的な面においても、そうである。
私達キリスト者にも、かつて、私達を霊的に産み出した霊的な”母”がいて、彼女がイエス様を自分の最奥の間へと導き、そこでイエス様との親密な交わりと祈りによって、私達・新しいキリストにあるいのち達が生み出されていった。
そして私達もまた、イエス様との愛の交わりの内に、また、うめきの祈りによって、さらに新しい霊的ないのちを生み出して行くのだ。
イエス様は言われる。
黙示録3:20 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。3:21 勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。
今回の箇所では、女性の側が一方的に主人である男性を求め、行動し、そしてついに出会い、奥の間へとお連れして、そこで親密な交わりに至った。
私たちも彼女のように、あるいはダビデのように、真の夫であられるお方を熱心に求め、探し、この御方を見つけたなら、決して手放さず、いのちを生み出す親密な交わりへと導き、いのちを生んで増えて地に満たしていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!