メッセージ - 主の目が絶えず注がれる礼拝者の地・モリヤ(1歴代誌21:1-22:1)
主日礼拝
主の目が絶えず注がれる礼拝者の地・モリヤ(1歴代誌21:1-22:1)
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前回はベエル・シェバの箇所をキアズム構造解析し、サンドイッチ・キアズムの中心部分、すなわち、アブラハムがイサクを捧げる場面こそが重要である事を見た。その場面が私達に教える事は、主が奇跡的に与えて下さった人、モノ、事は、我が物として握りしめず、さらに主へと捧げて行くなら、主はそれを足がかりにこの世へどんどん介入できるようになり、その捧げものを主が用いて、この曲がった世を正す、だけでなく、その捧げた人には何倍もの祝福(それも、海の砂粒の数倍・空の星数倍!)を返して下さる事を学んだ。
アブラハムがイサクを捧げるように主が指定された地は、モリヤの地であったが、今回、このモリヤとベエル・シェバの2つが交錯する第一歴代誌21章から、主に捧げる事がいかに素晴らしい結果をもたらすか、逆に、与えられたものを我が物とする事がいかに損であるかを、今一度学んでいきたい。
『時にサタンが起ってイスラエルに敵し、ダビデを動かしてイスラエルを数えさせようとした。ダビデはヨアブと軍の将校たちに言った、「あなたがたは行って、ベエル・シェバからダンまでのイスラエルを数え、その数を調べてわたしに知らせなさい」。』(1歴代誌21:1-2) サタンがイスラエルに災いを降す「とっかかり」となったのは、イスラエルの中に芽生えて来た罪であり、ダビデに芽生えてきた傲慢だった。
ヨアブはダビデを諌めたのに、ダビデは聞かず、イスラエルを数えさせた。果たして、合計157万という数字が出た。ダビデは、その具体的な数値を聞いて、罪を犯した事を悟った。なぜなら、数えていない内は「万軍の主」(イザヤ54:5)が彼の力だったのに、数えた瞬間から、彼の力は「157万の人間」に成り下がってしまったからだ。彼がこの事を犯したゆえに、エルサレムは3日間、主のつるぎに打たれる事になる。
彼は、自分が罪を犯したのだから、災いを彼らに向けないで、自分と自分の家に降して下さい、と執り成し祈った所、主は、エブス人オルナンの打ち場に祭壇を築くようダビデに命じた。実はその場所は、過去と未来の礼拝者達をつなぐ、とても重要な場所である。そこはモリヤ山と言われる地、すなわち過去、彼らの先祖アブラハムがイサクを捧げた所であり、後にソロモンの手で神殿が建てられる所である。(2歴代誌3:1)
『その時オルナンは麦を打っていたが、ふり振り返って御使いを見たので、共にいた彼の四人の子は身を隠した。』(1歴代誌21:20)
御使いはオルナンの打ち場で災いをもたらしていたのに、オルナンは何の害も受けず、麦を打っていた。災いのまさに中心地にいたのに、なぜ全然無事だったのだろう。 災いの日に、真っ先に害を受ける人もいれば、逆に、災いの中心地にいても害が素通りして行く人もいる。 それは、全能の主を拠り所とする人(詩篇91篇)、また、忍耐して主の言葉を守る人である。(黙示録3:10) オルナンの性質は、まさにそうだった。彼はエブス人でありながら、(1)素晴らしい信仰者であり、(2)権威に忠実で、そして(3)躊躇なく自分のものを主に捧げる性質の持ち主だった。彼はダビデが来るのを見ると、すぐ地にひれ伏した。ダビデが彼に、この土地を十分な金額で買いたい、と申し出ると、オルナンは言った。
「どうぞこれをお取りなさい。そして王わが主の良しと見られるところを行いなさい。わたしは牛を燔祭のために、打穀機をたきぎのために、麦を素祭のために捧げます。わたしは皆これを捧げます」(21-23節)
オルナンは何から何まで捧げる、と、ダビデに申し出た。その言葉が発せられた瞬間、確かにその地はオルナンの手を離れ、主のものとなった。しかしダビデは、自分が費用をかけずに主に捧げるなどとんでもないと、50シェケルで打ち場と牛を買い(2サム 24:24)、後には600シェケルでモリヤ山全体を買い取った。
モリヤ(ラアー(見る)+主(ヤハ))は、主が絶えず目を留めておられる地、人が主に捧げるかどうかを見ておられ、捧げたなら、その人に豊かに加えて備えられる地である。主は「礼拝の地」に目を留めておられる。 主はそこで、イサクを捧げたアブラハムに対して備えられ、全財産を捧げたオルナンに対して備えられた。
こうしてダビデはその所で捧げ物を捧げると、主は天から火を下して答えられ、御使いは剣を鞘に収めた。
ダビデは、主から驚く程の祝福を受けたが、自分のステータスを数え、自分を誇ろうとした結果、災いが起きて、減らされてしまった。しかしオルナンは、躊躇なく自分のものを捧げたら、増し加えて与えられた。
私達は、主が祝福して下さってからは、自分のステータスはどれほどかを心配したりせず、誇ったりせず、はじめから「万軍の主」により頼んでいれば良いのだ。そして、与えられたものを自分のものと主張せず、いつでも主に捧げる心を持っているなら、どんなに困難な時代でも守られ、増し加えられ祝福されるのだ。 そのようにこの時代、大いに祝福される皆さんでありますように! イエス様のお名前によって祝福します!