しみやしわやそういった類の一切無い花嫁となるために(雅歌書4:1-8)
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前回は、いよいよ花嫁は花婿の豪華な車に迎えられ、花婿の家へと嫁いでいく様子が記されていた。
4:1 わが愛する者よ、見よ、あなたは美しい、見よ、あなたは美しい。あなたの目は、顔おおいのうしろにあって、はとのようだ。あなたの髪はギレアデの山を下る/やぎの群れのようだ。
4:2 あなたの歯は洗い場から上ってきた/毛を切られた雌羊の群れのようだ。みな二子を産んで、一匹も子のないものはない。
4:3 あなたのくちびるは紅の糸のようで、その口は愛らしい。あなたのほおは顔おおいのうしろにあって、ざくろの片われのようだ。
ここでは花嫁は顔おおい(ベール)をつけていた。
ベールは、自分と世とを隔てる壁であり、未婚の女性は、世のあらゆる男性に対してかけられ、そして自分の花婿となる男性に対しても、かけられた状態であった。
しかしいよいよ結婚において花婿と花嫁の誓約が成立したとき、そのベールは花婿によって取り除かれる。
そして新婚初夜の時、二人は奥の間へと入って行き、夫によってさらなるベールが取り除かれ、もはや二人には何の隔てもなくなり、一体となる。
このように本来、二人が一つになるまで、世と自分自身に対して、隔ての壁なすべきであり、そ してそれが、やがてきたるべき花婿のために、花婿によって取り除けられ、そしてやがては、顔と顔とを合わせて花婿と花嫁とは、奥の間において対面することになる。
これは、キリストと教会を表している。
私たちは今、花嫁修行中で、キリストと顔と顔と合わせて会いたいしている状態ではまだない。
しかしやがて、すべての覆いが取り除けられ、キリストご自身と、顔と顔と合わせて対面する時がやってくる。第一コリント13:12
その時に至るまで、花嫁が世と自分自身とを隔て、他のどんな男に対しても覆い隠すように、私たちもキリスト以外に自分を晒したり、頼りするものがあってはならない。
私たちも自分自身を覆うべきであり、私たち自身が、キリストに対して純潔を守り、時至って花婿であるイエス様に覆いを取り除けていただくのを待たなくてはならない。
今日本においては、結婚前までに、未来の旦那さん以外に純潔を守ると言う事は軽んじられてはいるが、結婚前に他の男に全てをさらし、大切なものを開いてしまうと言うことがあるから、今まさに結婚関係が破壊されている状態である。
夫以外に、妻以外に純潔を守ろうと言うことを軽んじる人は、必ず恋愛結婚関係で問題が起き、特に子供たちに被害が及ぶ。
今日の箇所では、花婿は花嫁と相対して、あらゆるところを褒めそやしている。
4:4 あなたの首は武器倉のために建てた/ダビデのやぐらのようだ。その上には一千の盾を掛けつらね、みな勇士の大盾である。
4:5 あなたの両乳ぶさは、かもしかの二子である二匹の子じかが、ゆりの花の中に草を食べているようだ。
彼女は確かに美しいかもしれないが、しかし結婚においては、相手の女性が必ず下若くて美しいものでなければならない、と言うわけでは無いし、夫も、若々しくカモシカのように力強くなくてはならないと言うわけではならない。外見や年齢や、シミやしわのあるいかんにかかわらず、素晴らしい花嫁になる方法がある。
エペソ五章に、どうしたらこの花嫁のように、シミやシワやそういった類が一切ないものになれるかが記されている。
皆さんは、傷やシミやシワのない清いものになりた いだろうか。
私たちの体は、歳をとればしみやシワが出てくる。この体のシミやシワは、どんなエステでも対処しようがないが、しかし霊的なシミやシワはキリストによって対処可能である。
キリストの御前に置いて、シミやシワのないものとなるためには、26節と27節に、その秘密が書いてある。
すなわち、御言葉と言う水でいつも洗い決まっているならば、どんなに歳をとっても、外見にシミがあっても、その女性は愛らしく美しい。
雅歌書のこの男性が花嫁を褒めそやしているのは、花嫁がまさに、自分自身からシミやシワを取り除くたしなみがあったからである。
エペソ五章22節から、花嫁が一体何を身に付けるべきかが記されている。
それはすなわち、妻たるもの、教会がキリストに対する立場、夫であるキリ ストに従うこと。
夫は、世の中に出て、戦って、働いて、そして家に帰ってくるが、もし家の中でも、妻との戦いや争いがあるとしたら、いったい男性はいつ、羽を休めることができるだろう。
そのような男性はますます疲れ果て、弱くなって、その弱い様を見た女はますます諍いを吹きかけて、夫は外部の何かに慰めを求めると言う、悪循環に陥っていく。
そして夫は、持ち上げてくれるプロの女性に、お金を払ってでも行くようになってしまう。それ程男性は、敬われる事に飢えているのだ。
だから、妻が夫に対してなすべきは、夫を敬うことと、従うことである。
ここで忘れてならないのは、キリストにあってということである。
例えば酒を買って来いとか、礼拝に行くなということにも従うのではなく、キリストにあってと従うということが大事。