メッセージ - 御前で誇る事のできる冠 - 人を得て、人を育て、人を残す。(ヨハネ21:15-22)
御前で誇る事のできる冠 - 人を得て、人を育て、人を残す。(ヨハネ21:15-22)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » ヨハネによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2021-11-7 6:50
御前で誇る事のできる冠 - 人を得て、人を育て、人を残す。(ヨハネ21:15-22)
Youtube動画(2019-10-31祈祷会)
【概要】
イエス様が復活後にペトロを羊飼いとして任命し、人を得て育て残すことの大切さを教える。
【聖書箇所】
ヨハネによる福音書21章15-22節
創世記1章26節
第一テサロニケ2章19-20節
第二コリント11章1-3節
ピリピ2章12-18節
【勧めの言葉】
人を得て、人を育て、人を残すことが、神の意図であり、私たちがなすべき最も大切な働きです。
【***詳細***】
今朝、恵みをいただく御言葉は、ヨハネによる福音書の21章、15節から22節までです。この箇所はかなり有名な箇所ですね。イエス様がこのペトロを羊飼いとして任命する箇所です。
十字架にイエス様がかかられて弟子たちは逃げ惑いました。けれどもイエス様は復活されました。そして復活の主がこの弟子たちにたびたび現れました。ペトロたちは、この時はイエス様の仕事を捨てて、世の仕事に戻ろうとしたところでした。釣り、漁師ですね。魚を捕る者。人間を捕る漁師として任命されてはいたんですけど、しかしペトロはこの時魚を捕る漁師に戻ろうとして、その晩は一匹も捕れませんでした。
そこにイエス様が現れて、「あなたがたは何か食べるものがあるか」と聞かれました。弟子たちは、「はい、ないです」と答えるしかありませんでした。イエス様の御心でないところにいくら網を下ろしても、またイエス様のターゲットとするものでないものをいくらターゲットとしたところで、それは得られないのです。けれどもイエス様が指示された通りにすると、彼らは大量の魚を得ました。
その彼らに対してイエス様は、「お前たちなんでまた漁に戻ったんだ」というお叱りの言葉は言わずに、ただ炭火を起こして、本当に寒い中、無駄な労苦をした彼らのために炭火を起こして、その炭火にパンと魚を焼いて、そしてこの炭火焼きの料理を持って彼らをもてなして、待っておられました。イエス様とはそういうお方です。
そして今日お読みした箇所で、イエス様はシモン・ペトロに3回言われます。「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たち以上に私を愛しますか?あなたは私を愛しますか?」シモン・ペトロが、「はい、私があなたを愛することはあなたがご存知です」と言った時に、イエス様は、「私の子羊を飼いなさい」と、最初の第1回目は「私の子羊を飼いなさい」と言われました。2回目、イエス様の答えは、「私の羊を牧しなさい」。そして3度目、また再び、「私の羊を飼いなさい」と、そういうふうに言いました。
イエス様を愛する者に対して、イエス様が言われることは、「私の羊を飼いなさい」です。本当に羊を飼うということ、これは何も動物の毛がフサフサした、あの動物の羊を飼うということではなく、イエス様の羊、それは人です。イエス様は真の羊飼いで、私たちが牧場の羊たちですけども、そのイエス様の羊たちを飼いなさい、あるいは牧しなさい、そういうふうに言われます。
人を得て、人を育て、人を残すこと。これこそが主の御心です。主はどのような人を育てあげるべきか、この聖書の本旨でもあります。人はもともと神の姿、神の形に創造されました。神の姿、形の人を育てあげ、人を残していくということ。これが神の御心です。
創世記1章26節を見てみましょう。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うすべてのものを支配させよう。』」
人は神の形だから人を殺してはならない。尊い存在だから。人間の一生それは尊いものです。しかし悪魔サタンがこの人を台無しにしてしまいました。神の形、それを切り離して、神との関係を切り離して、そして堕落させ、罪を行わせ、そして神様と断絶をさせた。神の形どころか本当にもう獣のようなものにしてしまいました。これは神の意図ではありません。
だから神様の意図、それは人を得て、人を神の形へと育て上げ、そしてその神の形となった人を残し、そして残された人々、彼らが、たとえ神の形に再び復帰させた人が死んだとしても、それでも残った人々がさらに他の人々を得て育て、そして神の形として残していくということ。これが神様の意図でした。
パウロは第一テサロニケ2章19-20節でこう言っています。「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのは、あなたがたではありませんか。あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。」
パウロはテサロニケの人々を得て育て、そして残しました。そしてパウロはなんと彼らに対して言います。主イエス様が再び来られるとき、御前において冠となるのは一体誰でしょうか。それはテサロニケの人たち、あなたがたではありませんか。人を得た人が、残った人が冠となるのです。
第二コリント11章1-3節でも、パウロは言います。「私はあなたがたを清純な処女として一人の夫に定め、キリストに献げることにしたからです。」得られた人々は神様に捧げる。イエス様に捧げることにしております。清純な花嫁として。
ピリピ2章12-18節でも、パウロは残された人々に向けて語ります。「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいる時だけでなく、私のいない今は、なおさら恐れおののいて、自分の救いを達成してください。」
私たちもパウロに倣い、イエス様がおっしゃったように本当に「私の羊を飼いなさい」「私の羊を牧しなさい」と、忍耐をもって本当に多くの人々を得て、そしてキリストに捧げられる花嫁として育て上げ、また神様に捧げられる羊としてどんどん人々を育てていく、そして残していく者となりましょう。
【結論】
私たちの使命は、人を得て、人を育て、人を残すことです。これこそが神の御心であり、永遠に残る働きなのです。