メッセージ - 救いの働きの根幹 : 聖霊とまぼろしと福音(使徒16:6-10)
主日礼拝
救いの働きの根幹 : 聖霊とまぼろしと福音(使徒16:6-10)
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週報/メッセージ(説教)概要
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先々週、韓国コーエンにて、総長のポール・カン先生から、救いの働きについての重要な概念を学んだ。
鍵はやはり、聖霊である。カン先生は言う。韓国のキリスト教はなぜ衰退してしまったのか。それは、韓国の教会は最近、繁栄神学にのめりこみ、本質を忘れてしまったからだと。また、日本はなぜ優れた神学者が多いのに、リバイバルが起きないのか。それは、学問はしっかりしているものの、聖霊が無いからだ、と。
パウロは言った。『わたしたちの福音があなたがたに伝えられたとき、それは言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信とによったからである。』(1テサロニケ1:5) パウロはテサロニケでは、わずか3週間しか宣教できなかったのに、そこの聖徒たちは、パウロが不在にもかかわらず、マケドニヤとアカヤの聖徒達の模範と呼ばれるまでに霊的成長を遂げ。それは、パウロの力と聖霊と強い確信に満ちた宣教に他ならない。
礼拝において、また悪しき者との戦いにおいて、御言葉と聖霊のどちらが先であるべきか。それは、聖霊である。イエス様は「霊とまこと(真理)」による礼拝者を父は求めておられる、と言われた(ヨハネ4:23)。パウロも悪魔と戦うための武器は「御霊の与える御言葉の剣」と言った(エペソ6:17)。いずれも御霊が先である。
宣教とは、国境や言語、文化を超えて、異なった地に福音を伝えに行く事であるが、そのコンセプト(定義)を、パウロは3つの単語であらわした。すなわち、1,聖霊、2,まぼろし、3,福音、である。その根拠となる御言葉が、今回の、使徒16:6-10におけるパウロの宣教の箇所である。
『それから彼らは、アジヤで御言を語ることを聖霊に禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤ地方をとおって行った。そして、ムシヤのあたりにきてから、ビテニヤに進んで行こうとしたところ、イエスの御霊がこれを許さなかった。それで、ムシヤを通過して、トロアスに下って行った。』(6-8節) ルステラからトロアスまでの道のりは、千キロ以上。車や飛行機が無い当時の、千キロの伝道旅行は、どれほど労が多かっただろう。
パウロ達が行く先々で、聖霊は、ことごとく御言葉を語る事を禁じられた。人は思う。御言葉を伝える事は、至上の良い事だ、自分は至上の良い事をしているのに、なぜ結果が得られないのか、と。しかしそのような時こそ、私達は自分の善悪判断を投げ捨て、聖霊が導かれる事に従順すべきである。御霊が禁じられる時、どんなに「良い事」を頑張っても、実りは一切無い。パウロ達は行く先々で、神がかり的なストップをされ続け、主に祈り求めた結果、見せられたのが、うめき懇願しているマケドニア人の「まぼろし」だった。
『ここで夜、パウロは一つの幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が立って、「マケドニヤに渡ってきて、わたしたちを助けて下さい」と、彼に懇願(パラカレオー)するのであった。』(9節)
どうか、こちらに渡って来てください。海を超え、境界を超え、私達を助けに来て下さい。私達の罪から、訴えて来るサタンから、悲惨に満ちたこの世から、そして、地獄の滅びから、私達を救い出してください…。
私達は、闇雲に自分が良いと思った事をしてしまいがちだ。しかし一切をご存知であられる主は、世界の片隅にある人のうめき、懇願をご存知であり、それを「まぼろし」として見せて下さる。
パウロがあんなに伝道に熱心だったのは、何ゆえか。なぜ、鞭打ちされても、石打ちにされても、海の難、盗賊の難に遭っても、なお伝道旅行に出かけて行ったのか。彼は言っている。わたしは全ての人に返さなくてはならない負債を負っている、と(ローマ1:14)。この、イエス様の深い憐れみ、聖霊の深いうめき、そして、救いを届けるという「借金返済」を、何とかして、しなくては、という熱心が、彼を突き動かしていたのだ。
パウロは、アジア宣教を聖霊によって止められ続け、不毛な働きに疲れた時、自分の思いを全て主に明け渡しただろう。その時、主は、まぼろしを見せて下さった。私達も、自分の「よかれ」や、善悪判断は粉々に割って、そして主の御旨を求めるべきである。その時、その人がきよければ、主はまぼろしを見せてくださり、主はその人に、ご自身のうめき、憐れみ、ご計画を示し、そしてその人は、突き動かされて出て行く。
あの、パウロに懇願したマケドニア人は、その後どうなっただろう。パウロ達がマケドニア入りして、最初に宣教した地・ピリピに、「ルデヤの家」という、ヨーロッパ最初の「教会」が建った。以降、ヨーロッパはキリスト教が最も栄え、そして世界中に宣教師を送り出す地として、霊的にも文明的にも大いに発展して行った。
聖霊を求め、まぼろしを求めるべきである。「国を超え、ことばを超え、私達を助けに来てください」、というまぼろしを得て、聖霊のうめきを共にし、イエス様のはらわたがちぎれるような憐れみを共に溢れさせつつ、いのちの働きに進み行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!