メッセージ - 主によって黒歴史は感謝の歴史へ変わり、賛美へと変わる(詩篇56篇)
詩篇56篇表題「聖歌隊の指揮者によって、「遠き所におる音をたてぬはと」のしらべにあわせてうたわせたダビデのミクタムの歌。これはダビデがガテでペリシテびとに捕えられたときによんだもの」
この状況は、1サムエル記21:10-16に記されている。
ダビデはサウル王から追われ、イスラエルに居場所がなくなったために、ペリシテのガテへと逃れ、ペリシテの王の元に身を寄せようとした。
ところがガテは、彼が倒したペリシテ人ゴリヤテの故郷であり、ダビデは、そのゴリヤテの剣を身に帯びていた。
結果どうなるか、大体創造できそうなものであるが、ダビデは恐れに取り憑かれ、焦って、そこまでの判断が出来なかったのかもしれない。
自国から遠く離れたペリシテの敵地に、たった一人でいて、敵に囲まれ、うめく声もあげられない状態、まさに「遠き所におる音をたてぬはと」の状況の中、作った詩である。
1サムエル記21:11 アキシの家来たちはアキシに言った、「これはあの国の王ダビデではありませんか。人々が踊りながら、互に歌いかわして、/『サウルは千を撃ち殺し、/ダビデは万を撃ち殺した』/と言ったのは、この人のことではありませんか」。
ペリシテ人らはダビデを「王」と呼び、そして彼がゴリヤテを倒した時に女達が歌った歌も知っている。さらに悪い事に、彼はゴリヤテの剣を身に帯びていた。
まさに彼の命は風前の灯、ダビデが恐れるに十分だった。
そんなダビデには、もはや、一択しか残されていなかった。
すなわち、いつでも彼とともにおられる主に助けを求める、という事を。
詩篇56:1 神よ、どうかわたしをあわれんでください。人々がわたしを踏みつけ、あだする人々がひねもすわたしをしえたげます。
56:2 わたしの敵はひねもすわたしを踏みつけ、誇りたかぶって、わたしと戦う者が多いのです。
「ひねもす」(新改訳では「一日中」)と訳されたヘブライ語は、「コール・ハイ・ヨム」。コールは「全」、ヨムは「日」の他に、「期間」の意味がある。
ダビデがペリシテにいた期間、ずっと、ひっきりなしに、ダビデはペリシテ人から責め立てられ、虐げられつづけたのかもしれないし、あるいは、サウル王に追われ続けたて来たこの期間、ずっと、そのような心境だったのかもしれない。
詩篇56:3 わたしが恐れるときは、あなたに寄り頼みます。
56:4 わたしは神によって、そのみ言葉をほめたたえます。わたしは神に信頼するゆえ、恐れることはありません。肉なる者はわたしに何をなし得ましょうか。
56:5 彼らはひねもすわたしの事を妨害し、その思いはことごとくわたしにわざわいします。
実に素晴らしい、かっこ良い告白であるが、ダビデがその時、自分のいのちを救うために取った行動は、かっこ良くなかった。
1サムエル記21:12 ダビデは、これらの言葉を心におき、ガテの王アキシを、ひじょうに恐れたので、
21:13 人々の前で、わざと挙動を変え、捕えられて気が変になったふりをし、門のとびらを打ちたたき、よだれを流して、ひげに伝わらせた。
彼の人生一番の黒歴史かもしれない。
主にあって自分自身を御言葉でふるい立たせ、「恐れません」と告白しても、結局は恐れて、恥ずかしい行動を取ってしまう。
それは私達にもあるかもしれない。
せっかく、苦しみの中で信仰を奮い立たせ、素晴らしい信仰告白をしても、弱いゆえに、あるいは恐れ混乱したゆえに、格好悪い事をしてしまう事が。
あの偉大なダビデでさえ、そこを通って来たのだ。
しかしダビデは、その事を隠さず、むしろその出来事を詩にして、聖歌隊に賛美させた。
なぜなら、ダビデは、彼を救い出して下さった主への感謝と喜びが、あまりに大きいために、自分の恥さえ喜んでさらして、主を賛美したかったからだ。
だからこそ主は、彼を高め、大きな栄誉を与えたのだ。
自分自身の、恥の黒歴史は、主が働く事によって感謝の歴史へと変わり、そして賛美へと変わる。
56:8 あなたはわたしのさすらいを数えられました。わたしの涙をあなたの皮袋にたくわえてください。これは皆あなたの書に/しるされているではありませんか。
ダビデは弱さのゆえに信仰宣言した通りに凛々しく振る舞えなかった事を悲しみ、涙を流した。
しかし主は、私達・信仰者が、主のゆえに労苦したさすらいの日々を数えておられ、主の書物に記しておられる。
そして、主のゆえに労苦して流した全ての涙を、皮袋にたくわえておられる。
ダビデは主の前に凛々しく立ち続けられなかったゆえに流した涙が、無駄にはならず、なおも主により頼んだ故に、確信をいただく。
56:9 わたしが呼び求める日に、わたしの敵は退きます。これによって神がわたしを守られることを知ります。
56:10 わたしは神によってそのみ言葉をほめたたえ、主によってそのみ言葉をほめたたえます。
ダビデはこの詩篇で、合計、3度も「御言葉をほめたたえた」。(4,10節)
だから、御言葉が彼の盾となり、城壁となって、彼を守る事になる。
いかに敵地の真ん中で、敵に囲まれ、ひっきりなしに責めたてられるような、危機的状況であったとしても。
御言葉は、千万の敵を前にしても決して揺るがされない完全な防護壁である。
だからダビデは、この詩を、賛美で終わらせている。
56:11 わたしは神に信頼するゆえ、恐れることはありません。人はわたしに何をなし得ましょうか。
56:12 神よ、わたしがあなたに立てた誓いは/果さなければなりません。わたしは感謝の供え物をあなたにささげます。
56:13 あなたはわたしの魂を死から救い、わたしの足を守って倒れることなく、いのちの光のうちで神の前に/わたしを歩ませられたからです。
ダビデはまだ、死ぬような時ではない。
彼はこれから、王としてイスラエルを導き、主の御名を褒め称える賛美をたくさん作り、神殿を建て、主の栄光を多くの人々に伝え残して行かなくてはならないからだ。
主はダビデを守ったように、主は、全て主に従おうとする人々を、あらゆる災いから守られる。
ダビデがこの危機的状況から脱出した時に作った、もう一つの詩が、詩篇34篇である。
詩篇34篇表題「ダビデがアビメレクの前で狂ったさまをよそおい、追われて出ていったときの歌」
34:1 わたしは常に主をほめまつる(バラク)。そのさんび(テヒラー)はわたしの口に絶えない。
34:2 わが魂は主によって誇る(ハラル)。苦しむ者はこれを聞いて喜ぶであろう。
34:3 わたしと共に主をあがめよ(ガダル)、われらは共にみ名をほめたたえよう(ルーム)。
ダビデは、言葉を変えて色々な表現で主を賛美している。
彼のいのちが助け出された時の、彼の立ち居振る舞いが、いかに恥かしいものであっても、彼は真実な主を褒め称えたい故に、そして、多くの人々にこの主の素晴らしさを知ってほしいから、この詩を公開したのだ。
詩篇34:6 この苦しむ者が呼ばわったとき、主は聞いて、すべての悩みから救い出された。
34:7 主の使は主を恐れる者のまわりに/陣をしいて彼らを助けられる。
34:8 主の恵みふかきことを味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである。
あの敵地の只中、敵に囲まれたさ中にあっても、ダビデが守られたのは、目には見えない御使いが陣営をはってダビデを囲み、守っていたからである。
無数の御使いがダビデを守った理由は、ダビデが御言葉を3度もほめたたえ、御言葉を城壁としたからだ。
彼が信仰をまぜて御言葉を宣言し、御言葉を重んじたから、神はダビデを重んじ、御使いたちを遣わして彼を守らせたのだ。
主はすべて、御言葉を重んじ、御言葉をほめたたえる人に、御使いの陣営を遣わし、守ってくださる。
そして主は、主のゆえに労苦する信仰者の日々を数えておられ、その記録を主の書物に記しておられ、そして主のゆえに労苦して流した全ての涙を全て、たくわえておられる。
しかし主は、主のゆえでない涙、たとえば罪の楽しみができなかったゆえに流した涙や、騙しが通じなかったゆえに流した涙などは、数えてはおられない。
ダビデは常日頃、主により頼んでいたから、敵地の真ん中でも救われた。
しかし、常日頃から御言葉を軽んじている者は、いざという時に助けを求めても、何の答えも助けも無い。
箴言1:24 わたしは呼んだが、あなたがたは聞くことを拒み、手を伸べたが、顧みる者はなく、
1:25 かえって、あなたがたはわたしのすべての勧めを捨て、わたしの戒めを受けなかったので、
1:26 わたしもまた、あなたがたが災にあう時に、笑い、あなたがたが恐慌にあう時、あざけるであろう。
1:27 これは恐慌が、あらしのようにあなたがたに臨み、災が、つむじ風のように臨み、悩みと悲しみとが、あなたがたに臨む時である。
1:28 その時、彼らはわたしを呼ぶであろう、しかし、わたしは答えない。ひたすら、わたしを求めるであろう、しかし、わたしに会えない。
常日頃から主により頼み、どんな艱難の時代でも主から守られ、やがてダビデのように大いに用いられる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!