メッセージ - 私達を練り、清め、神の民として下さる主(詩篇66篇)
早天礼拝
私達を練り、清め、神の民として下さる主(詩篇66篇)
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詩篇66篇表題『聖歌隊の指揮者によってうたわせた歌、さんび』
前の詩篇のいくつかは、ダビデが作者だったが、この詩篇は、作者の名は記されていない。
この詩篇は,国家的な危機からの救いを感謝するものである.背景は不明であるが,13節からは1人称になっているので,王が民を代表して神に感謝をささげていると考えられる.
1節.〈全地よ〉を,神の世界支配の告白と最近の具体的な出来事において示された神の主権への言及とすれば,アッシリヤの敗退というヒゼキヤ王の時の出来事を示唆すると考えられる。(実用聖書注解)
詩篇66:1 全地(エレツ)よ、神にむかって喜び呼ばわれ。
エレツは、地、地球、世界などの広い意味があり、その、エレツの上にある全ての生き物、植物、鉱物、そして悪人も善人も含めた全人類に対し、呼びかけでこの詩は始まる。
それら全ての創造主である、神に向かって、喜び呼ばわれ!と。
詩篇66:2 そのみ名の栄光を歌え。栄えあるさんびをささげよ。
実際、全被造物の美しく調和が取れた存在によって、また、それら各々の働きと営みによって、神の栄光は表れており、誰にも弁解の余地は無い。(ローマ1:20)
しかし、全被造物の中で唯一、神の栄光をあらわす事をしない「例外」が、堕落してしまった人間である。
唯一、神に似たものとして創られた人間が、唯一、神の栄光を貶める存在となってしまったという「究極の皮肉」に、全被造物は、うめきつつ、彼らが贖われて神の子があらわれる事を、切に待ち望んでいる。(ローマ8:19-20)。
詩篇66:3 神に告げよ。「あなたのもろもろのみわざは恐るべきかな。大いなるみ力によって、あなたの敵はみ前に屈服し、
66:4 全地はあなたを拝み、あなたをほめうたい、み名をほめうたうであろう」と。〔セラ
神の御業が恐ろしい、と、ことさらに感じるのは、神に敵対する者達である。
エジプトのパロは、最初、神の言葉を伝えるモーセを侮ったが、最終的に、エジプトの軍隊は海に沈められ、神の前に屈服させられた。
また、ペリシテの神ダゴンも、当初はイスラエルの神に勝ったと思われて、ダゴン神殿に契約の箱が安置されたが、ダゴン像は、神の契約の箱を前にひれ伏せられた挙げ句、頭と胴体が切り離された状態で発見された。(1サムエル記5章)
5節以降は、神の民に対しての呼びかけである。
66:5 来て、神のみわざを見よ。人の子らにむかってなされることは恐るべきかな。
66:6 神は海を変えて、かわいた地とされた。人々は徒歩で川を渡った。その所でわれらは神を喜んだ。
66:7 神は大能をもって、とこしえに統べ治め、その目はもろもろの国民を監視される。そむく者はみずからを高くしてはならない。〔セラ
神は、神の民イスラエルをエジプトを脱出させる際、紅海を割って、海をくぐらせた。
彼らはみな、雲と海とでモーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲んだ。彼らについて来た御霊の岩とは、キリストの事である。(1コリント10:2-4)
イスラエルの民は、モーセを通して律法が与えられ、荒野にて、主ご自身が与える食物によって養われつつ訓練を受けた。
その後、神は、ヨシュアを通してヨルダン川を渡らせ、ついに約束の地へと入らせた。
そのヨルダン川は、バプテスマのヨハネがそこで人々に水のバプテスマを授け、イエス・キリストへと導いた所である。
モーセは神の民を、エジプトという世から脱出させ、神の訓練所である荒野へ導いたものの、モーセ自身は、約束の地に入れなかった。
同様に、モーセを通して与えられた律法は、神の民を訓練する養育係ではあっても、約束の地には到達し得ない。
しかし、ヨシュアが神の民にヨルダン川を渡らせ、荒野から約束の地へと入らせる事が出来たように、まことのヨシュア(=ヘブライ語イエシュア=イエス)であるイエス・キリストを信じる信仰によって、私達は、永遠の約束の地・天国に入る事が出来るのだ。(ガラテヤ3:17-29)
66:8 もろもろの民(アム)よ、われらの神をほめよ。神をほめたたえる声を聞えさせよ。
66:9 神はわれらを生きながらえさせ、われらの足のすべるのをゆるされない。
1節は「全地(エレツ)よ」の呼びかけで始まったが、8節は「もろもろの民(アム)よ」という呼びかけによって始まる。
アムは「人々」を意味するが、人々の中でも「善」に属する人々を、特に、イスラエルの人々や神の民をあらわす事が多い。
つまり1-7節は、神を敬う民も、敬わない民も、全部ひっくるめた全被造物に対するメッセージだったが、8節以降は、特に神の民に向けてのメッセージである。
それで作者は、「われらの神をほめよ。神をほめたたえる声を聞えさせよ」と呼びかけている。
神の民は、神に対し声を上げて賛美するべきだ。なぜなら神は、神の民を「生きながらえさせ、われらの足のすべるのをゆるされない」からだ。
66:10 神よ、あなたはわれらを試み、しろがねを練るように、われらを練られた。
炉の中で鉱物を溶かして、かなかすを除くのと同じように、神は、神の民を試練の中で精錬して、より純化する。
神はイスラエルの民に荒野を通らせ、不従順な世代を取り除いたように、私達を試練の中を通らせ、私達の中から要らない性質、不従順な性質を取り除かれる。
そうして純化された神の民を、広い、祝福の地へと導き入れてくださる。
66:11 あなたはわれらを網にひきいれ、われらの腰に重き荷を置き、
66:12 人々にわれらの頭の上を乗り越えさせられた。われらは火の中、水の中を通った。しかしあなたはわれらを広い所に導き出された。
神は、私達の中に、神を離れて自分勝手な所に行ってしまう性質がある時、それを取り除くために、敢えて貶め、人々が彼の頭の上を乗り越えて行くような所を、通らせる。
放蕩息子が、父の元を離れて、世に出ていって放蕩した時、人々はよってたかって彼から剥ぎ取り、彼が全てを失った時は豚の世話をさせ、しまいに彼は、豚の餌さえ食べたいと思わせる程、みじめな思いをした。(ルカ15章)
しかし、全てを支配しておられる神は、憐れみのゆえに、彼らが火の中、水の中をくぐっても助かるように、手加減をしてくださり、しかも彼らの中から要らない部分「かなかす」だけを焼き尽くして取り除いて下さる。
これは、神は私達を愛しておられ、私達がより純粋な者となるために、取り計らってくださっているのだ。(イザヤ43:2-4)
放蕩息子が困難の渦中で、我に返り、父の元に帰った時、父は放蕩息子が帰ってきた事を喜び、宴会を開いて祝った。
同じように、神の元を離れた罪人が、悔い改めて立ち返るなら、天において、御使い達の間に、大きな喜びと、宴会が沸き起こるのだ。
66:13 わたしは燔祭をもってあなたの家に行き、わたしの誓いをあなたに果します。
66:14 これはわたしが悩みにあったとき、わたしのくちびるの言い出したもの、わたしの口が約束したものです。
66:15 わたしは肥えたものの燔祭を/雄羊のいけにえの煙と共にあなたにささげ、雄牛と雄やぎとをささげます。〔セラ
神の民が苦しみに遭った時、思い出すのは、主の家(神殿、教会)である。
ハンナは、苦しみの時、主の宮にのぼって、言葉にならない祈りと誓いを捧げた(1サムエル記1章)。
またヨナは、神の命令とは逆方向に行った時、あらしに遭って船から放り出された挙げ句、魚に飲み込まれたが、彼はその魚の腹の中から、主に祈り、主の宮を慕い求め、かろうじて助かった。(ヨナ書1-2章)
人は苦しみの中で、神に誓いを立てるが、その立てた誓いは、しっかり果たすべきである。
ハンナが祈った通りに、神は彼女に男の子を与えられ、ハンナは、誓願した通りにその子を捧げた。
その結果、神はハンナを豊かに祝福し、さらに子を与えられた。彼女は大きな喜びの内に、素晴らしい賛美を主に捧げた。(1サムエル記2章)
ヨナのほうは、助かった後、主の言葉どおりニネベに行って宣教したものの、まだ心に苦さを覚え、主に不服を申し立てたが、主はヨナを、その苦々しさから救い出すために、東風と虫を備え、実体験を通して主の御思いを知らされた。(ヨナ書4章)
66:16 すべて神を恐れる者よ、来て聞け。神がわたしのためになされたことを告げよう。
66:17 わたしは声をあげて神に呼ばわり、わが舌をもって神をあがめた。
この詩の最後は、主をほめたたえる賛美で終わる。
66:18 もしわたしが心に不義をいだいていたならば、主はお聞きにならないであろう。
66:19 しかし、まことに神はお聞きになり、わが祈の声にみこころをとめられた。
主は、心を見るお方である。
外見はうやうやしく礼拝しているかのように見えても、心が御前で純粋でないなら、主は、その祈りを聞かれない。
しかし、心が主に対してまっすぐなら、主はその祈りを聞かれる。
そうして純粋に御前で祈り、心を尽くして礼拝するなら、その祈りが聞かれた時には大きな喜びと感謝があふれる。
66:20 神はほむべきかな(バラク)。神はわが祈をしりぞけず、そのいつくしみをわたしから取り去られなかった。
バラクは元々、ひざをつくという意味である。主の前にひざをついて低くなる事こそ、人の側の分である。
神が人を祝福する、というのは、神が、天の高い所から下りてきて、ひざをついて低くなって便宜を図って下さるものである。
だから、究極に低くなられたイエス様の十字架こそ、祝福の真骨頂である。
高き所から降りて来られ、弱く罪を犯しがちな私達を憐れみ、救い、贖って下さった、素晴らしい神の御前に、いつも低くへりくだり、声をあげて主を賛美し、感謝を捧げるのが、私達が為すべき分である。