メッセージ - 聖所に入る時、私達は真理をさとり、あらゆるしがらみから解放される(詩篇73篇)
聖所に入る時、私達は真理をさとり、あらゆるしがらみから解放される(詩篇73篇)
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- 執筆 :
- pastor 2020-8-26 8:28
詩篇 講解説教
聖所に入る時、私達は真理をさとり、あらゆるしがらみから解放される(詩篇73篇)
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詩篇第三巻に入った。
詩篇の構造は、モーセ五書(トーラー)と同じく、五巻から成り立っていて、詩篇第三巻は、聖所と礼拝がテーマで、それはトーラー第三巻の、レビ記に相当する。
詩篇は生活密着型トーラー、リビングトーラーである、と、コーエン大学総長のポールガン博士は言ったが、聖所と礼拝を重んじるなら、あるいは、軽んじるなら、そ人はどうなるか、この73篇で早速示されている。
詩篇73篇表題『第三巻 アサフの歌』
アサフは、ダビデが編成した聖歌隊において、シンバルを鳴り響かせる楽長である。
ダビデが契約の箱をエルサレムに運び入れた日、この聖歌隊が編成され、彼は楽長としてダビデに任命された。(1歴代誌16章)
73:1 神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい。
全くそのとおりである。
神は神の民に、心のきよい人達に対し良くしてくださり、恵み深い。
イエス様も、心の清い人は幸いである、彼らは神を見る、と言われた(マタイ5:8)。
ところが、聖歌隊の指揮者で、教会の賛美リーダーのようなポジションであるアサフが、真逆な事を、言い出してしまう。
73:2 しかし、わたしは、わたしの足がつまずくばかり、わたしの歩みがすべるばかりであった。
賛美リーダーや、教会の重要なポジションの人が、つまづくばかりの人生、足がすべるばかりになってしまう、とすれば、その理由が、3節につづられている。
73:3 これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者をねたんだからである。
聖所から目を離し、礼拝から遠ざかって、世の悪しき者の栄えるのをじっと見つめ、悪どい者が高くなっているのを、ねたむ、とするなら、どんなにアサフのような素晴らしい賛美リーダーであっても、また教会指導者であっても、つまづくばかりの人生、すべるばかりの人生になってしまうのだ。
すなわち、1節に記されている真実から離れ、2-3節をしてしまうと、4-16節に記されている、苦々しい、みじめな思いを味わい続けてしまう事になる。
以降、4-12節に、世で栄えている悪者の有様が列挙されている。
73:4 彼らには苦しみがなく、その身はすこやかで、つやがあり、
73:5 ほかの人々のように悩むことがなく、ほかの人々のように打たれることはない。
73:6 それゆえ高慢は彼らの首飾となり、暴力は衣のように彼らをおおっている。
73:7 彼らは肥え太って、その目はとびいで、その心は愚かな思いに満ちあふれている。
73:8 彼らはあざけり、悪意をもって語り、高ぶって、しえたげを語る。
73:9 彼らはその口を天にさからって置き、その舌は地をあるきまわる。
高慢な者、神に逆らう者の特徴は、以下である。
73:10(新共同訳) (民がここに戻っても/水を見つけることはできないであろう。)
73:11(新共同訳) そして彼らは言う。「神が何を知っていようか。いと高き神にどのような知識があろうか。」
73:12(新共同訳) 見よ、これが神に逆らう者。とこしえに安穏で、財をなしていく。
(口語訳の10節は、あまりに原文から離れた訳し方をしている、と感じたので、新共同訳を引用。)
「神よりも自分を高く」。これがサタンの本性であり、サタンの、人をそのように仕向けようとする本質である。
そして、悪を為す人が栄えるのを大々的に見せて、神に喜ばれる生き方を損であるかのように思わせるのである。
その価値観で世を見てしまったアサフは、13-16節にて、その虚しさを吐露している。
73:13 まことに、わたしはいたずらに心をきよめ、罪を犯すことなく手を洗った。
73:14 わたしはひねもす打たれ、朝ごとに懲らしめをうけた。
73:15 もしわたしが「このような事を語ろう」と言ったなら、わたしはあなたの子らの代を誤らせたであろう。
73:16 しかし、わたしがこれを知ろうと思いめぐらしたとき、これはわたしにめんどうな仕事のように思われた。
彼は13節で、心をきよめ、罪を犯すことなく手を洗う事をむなしいかのように言ったが、1節こそ真実である。
「神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい。」。
しかし、世の悪が栄えている事に目を向け、世は不条理だ、と自分の中で結論づけてしまうと、その人は、朝ごとに懲らしめを受け、心の苦痛から抜け出せない。
この、終わりのない堂々巡りから脱出するコツが、17節である。
詩篇73篇の転機は、17節である。
73:17 わたしが神の聖所に行って、彼らの最後を悟り得たまではそうであった。
アサフが、聖所に入った時。
その時、その者達の最後を彼は悟り得て、解決へと導かれる。
思い出してほしい。
詩篇73篇からはじまる第三巻は、聖所と礼拝がテーマであり、レビ記に相当する箇所であった事を。
レビ記は、私達には関係が遠い書のように感じるかもしれないが、詩篇はまさに、現代を生きる私達の思い、心、現状と実に密接する、生活密着型トーラーなのだ。
レビ1:1 主はモーセを呼び、会見の幕屋からこれに告げて言われた、
主から呼ばれ、主の聖所に導かれ、主の聖所から語られる言葉に聞く。
この原点に立ち返る時、「きよい者は神を見る」と書かれてあるとおり、神の視点で、物事の真理を悟る事ができる。
その時、目の覆いが取り除かれる。
それまで、悪人の悪行によって覆い隠され、くらまされてしまっていた真理が、見えて来る。
そして、真理を知る時、私達は自由になる。
18節以降、悪どい者が行き着く先を、彼は真理の目で見て、悟った内容を、列挙する。
73:18 まことにあなたは彼らをなめらかな所に置き、彼らを滅びに陥らせられる。
73:19 なんと彼らはまたたくまに滅ぼされ、恐れをもって全く一掃されたことであろう。
73:20 あなたが目をさまして/彼らの影をかろしめられるとき、彼らは夢みた人の目をさました時のようである。
これは、弱い者の願望ではなく、真実である、という事は、歴史が証明している。
悪と嘘に長けた卑怯な者が、ずっと成功し続け強くなり続けて永らえた歴史は、無い。もしそうだったら、とっくに今、全世界は強大な悪に支配されているはずだ。
そうなっていないのは、義なる神が、そうならないように歴史を支配しておられる故だ。
結局、神なしで好き放題出来る、などという思いは、一時の夢である。
目を覚ました時、またたくまの滅びが一気に襲う。
彼は告白する。
73:21 わたしの魂が痛み、わたしの心が刺されたとき、
73:22 わたしは愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった。
73:23 けれどもわたしは常にあなたと共にあり、あなたはわたしの右の手を保たれる。
73:24 あなたはさとしをもってわたしを導き、その後わたしを受けて栄光にあずからせられる。
目を神からそむけ、けもののような人間を妬むなら、心が痛み、苦しみ、けもののようにもだえ吠えるしかない。
私達は、そのようないらぬ痛みに苦しみ悶え、けもののようになっていないだろうか。しかし、主は、ずっと手を取って導いて下さった。
主はさとしつつ導かれる。弱い私達を。
後に、栄光にあずからせて下さるために!
なんと恵み深い神であろうか。
そして彼は、結論づける。
73:25 わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない。
73:26 わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である。
73:27 見よ、あなたに遠い者は滅びる。あなたは、あなたにそむく者を滅ぼされる。
73:28 しかし神に近くあることはわたしに良いことである。わたしは主なる神をわが避け所として、あなたのもろもろのみわざを宣べ伝えるであろう。
彼は聖所に戻ってきた。
すると彼は、真理を知り、全ての世のしがらみや不条理から解放され、心底、主をほめたたえるに至った。
私達は、イエス様を信じ、いつもイエス様を見続けているなら、私達こそが神殿、聖所である。
いつも主を見続けて、自分自身を、いつも聖所として保ち、あらゆる世の不条理から自由な皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!