メッセージ - 私達が獲得しようとしている地はどういう所か(申命記11:10-12)
主日礼拝
私達が獲得しようとしている地はどういう所か(申命記11:10-12)
第一礼拝 Youtube動画
週報/メッセージ(説教)概要
アブラハムは、本土・親戚・父の家という「縄張りやしきたり」を離れ、主が示された地に入ったため、祝福の実体を、大いに受けた。私達もこの2021年、罪深い、以前の縄張りやしきたりを離れ、神様が示された御言葉のしきたりと、御言葉の縄張りの中へと入って行き、実際的・具体的にアシェルの祝福の実体を得る年として、御言葉が与えられた。本日は特に、アブラハムとその子孫である私達に約束された「土地」「住む所」は、具体的にどういう所かを見ていきたい。
『あなたがたが行って取ろうとする地は、あなたがたが出てきたエジプトの地のようではない。あそこでは、青物畑でするように、あなたがたは種をまき、足でそれに水を注いだ。しかし、あなたがたが渡って行って取る地は、山と谷の多い地で、天から降る雨で潤っている。その地は、あなたの神、主が顧みられる(ダーラシュ:求める、探す、要求する)所で、年の始めから年の終りまで、あなたの神、主の目が常にその上にある。』(申命記11:10-12)
これが、主がアブラハムの子孫に与えようと400年以上も前から目を注ぎ続け、準備しておられた地である。主がいつも目を留めておられる、このような地を受け継ぐ今年でありますように!
創世のはじめ、地は、沸き上がってくる泉によって全地が潤っていた(創世記2:16)。エデンの園は、人が自分の力で開墾したり、除草や害虫駆除したり等、労苦する所ではなく、主がふんだんに実らせて下さった喜びの園を「守り(シャマール)」「仕える(アバァド)」所である。(同2:15)
しかし御言葉に背き、善悪を知って、神のようになった人間は、エデンから追い出され、額に汗し、次から次へと生え出るいばらやあぜみと格闘しながら地を耕し、労して食を得るようになった。
しかし、主が神の子達に、すなわち、詩篇1篇の「3つの”ず”」を離れ、昼も夜も御言葉を口ずさむテフィラーが相続する地は、年中、主の目が注がれていて、天の雨で潤っており、神の子達はそこで主に仕え、主ご自身が豊かに実らせて下さるものを「守る(シャマール)」のである。
そこはエジプトのようではない、と言われた。こき使われて労苦する所ではなく、主が潤し、ふんだんに実らせて下さった実りを、全被造物の益となるために、正しく管理する仕事場である。
イスラエルの民は、主が用意されたその地へ向かう途中、何度か、エジプトをなつかしんだが、いかに、エジプトがナイルで潤っているとはいえ、所詮、額に汗し、自分の手足で働き、労して食を得る生き方の範疇を出られない地である。私達はそんな、エジプトの流の生き方(しきたり)から、離れなくてはならない。この生き方パターンは、エデンの外側で、自分の善悪判断で生きる生き方であり、私達はそうした「本土・親戚・父の家」から離れ、主が常にその目を注がれ、いつも主が面倒を見ておられる地に入り、そこで、御言葉に留まり、正しく生きるべきである。
エジプト流の生き方を注意深く見極め、離れ、祝福のパターンに入る皆さんでありますように!
今、世界は、エデン園の良き世界とはかけ離れていて、額に汗を流し、労苦し、食を得なくてはならない、どころか、額に汗したくても、食を得たくても、できないような時代になりつつある。
このような時代だからこそ、私達はますます、古い生き方の本土・親戚・父の家を離れ、神様の言葉のしきたり、神様のガードがある縄張りに留まり続けるべきである。すなわち、詩篇1篇の「3つの”ず”」から離れ、主の教えを喜びとし、御言葉を昼も夜も口ずさむテフィラーとなるのだ。
ユダヤ人が暗唱している律法(トーラー)は、約束の地に入る直前で、終わってしまっている。
しかし私達は、イエシュア、すなわち、まことのヨシュアであられるイエス様に従っていくなら、その地に入る事ができる。旧新約の御言葉を守り行い、イエスのあかしを保ち、その地に入って、祝福の実体の中で生きる今年でありますように!イエス様のお名前によって祝福します!