メッセージ - 離れた者よ、帰れ(詩篇80篇)
詩篇 講解説教
離れた者よ、帰れ(詩篇80篇)
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詩篇80篇表題『聖歌隊の指揮者によってゆりの花のしらべにあわせてうたわせたアサフのあかしの歌』
この詩篇の状況は、以下の状況が考えられる。
・バビロン捕囚の時
・北イスラエル王国がアッシリヤによって捕囚とされ、南ユダ王国が兄弟王国の回復と再統一を祈って歌われた
なぜなら、3、7、19節に、「私たちをもとに返し」という言葉が繰り返されているからだ。
そしてこの祈りは、神様から離れた人が、神様との交わりの回復を求める祈りでもあり、私達の祈りでもある。
なお、表題の「あかし」は、新共同訳では「定め」と訳されており、すなわち「教えのために作られた」ものである。
80:1 イスラエルの牧者よ、羊の群れのようにヨセフを導かれる者よ、耳を傾けてください。ケルビムの上に座せられる者よ、光を放ってください。
80:2 エフライム、ベニヤミン、マナセの前に/あなたの力を振り起し、来て、われらをお救いください。
エフライム、ベニヤミン、マナセは、ラケルの子孫で、北王国を代表する。
彼らは、契約の箱の西側に宿営していた。(民数記2:17-22)
かつては荒野において、主の契約と主の御言葉の近くで養われていた彼らだった。
そこへと戻してください、という祈りが、この詩篇である。
80:3 神よ、われらをもとに返し、み顔の光を照してください。そうすればわれらは救をえるでしょう。
この内容が、7、19節にも繰り返されているが、それは、民数記6:25の祝祷に通じる。
『願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、あなたを恵まれる(ハーナン)ように。』
ここの「恵み(ハーナン)」は、憐れむ、情けをかけるという意味であるが、具体的な行動を伴った、同情である。
これは、新約ギリシヤ語の「スプランギニゾマイ(はらわたがちぎれる思い)」に相当し、イエス様が、人の有様、飼い主のいない羊のように弱り果て倒れているあり様を見た時に感じた、深い憐れみ、同情である。
それでイエス様は、憐れみの働きを、その公生涯において実行された。
主が、御顔をあなたに照らし、恵まれますように。
その祝福の祈りは、主の慈愛に満ちた表情を、光のようにあなたに照らして下さるように、という祈りなのだ。
80:4 万軍の神、主よ、いつまで、その民の祈にむかって/お怒りになるのですか。
祈りは、ヘブライ語でテフィラーで、本来、ユダヤ人の祈りは、御言葉にそのまま自分の感情や願いを乗せる祈りだった。
しかし、それがいつしか、御言葉から離れた自分勝手な祈りになってしまった。
主の御言葉から離れ、主の御心から離れて、じぶんの良かれで生きた時代が、士師記の時代である。
それはそれは、荒んだ時代だった。
だから、主の御言葉から離れてはならないのだ。
80:5 あなたは涙のパンを彼らに食わせ、多くの涙を彼らに飲ませられました。
80:6 あなたはわれらを隣り人のあざけりとし、われらの敵はたがいにあざわらいました。
80:7 万軍の神よ、われらをもとに返し、われらの救われるため、み顔の光を照してください。
彼らは、御言葉から離れた故に、敵にあざけられ、良いようにされてしまった。
それで、続く8−13節で、過去の、神様の特別な扱いを思い返し、また、彼らの今の苦境を訴えている。
ここで特徴的な事は、自分たちを「ぶどうの木」と呼んでいる事だ。
私達にとっては、イエス様こそ、まことのぶどうの木であるが(ヨハネ15章)イエス様から離れるなら、切り離されて火の中をくぐる経験をしてしまう。
80:8 あなたは、ぶどうの木をエジプトから携え出し、もろもろの国民を追い出して、これを植えられました。
80:9 あなたはこれがために地を開かれたので、深く根ざして、国にはびこりました。
80:10 山々はその影でおおわれ、神の香柏はその枝でおおわれました。
80:11 これはその枝を海にまでのべ、その若枝を大川にまでのべました。
彼らが栄えた時代とは、彼らが主の言葉を忠実に守った時代だった。
ダビデの時代、ソロモンの時代の前半が、そうだった。
御言葉を守らなかった時代は、荒野の40年の時代、士師記、ソロモン以降の時代であり、守らなかった結果、敵に、いいようにされてしまう。
列王記・歴代誌は、御言葉を守り行った王の祝福された時代と、御言葉から離れた王の呪われた時代の歴史が記されている。
敵に、サタンに、いいようにされてしまう訳は、主の囲いの中で安住していれば良いものを、変な色気を出して、主の保護の外へポーンと飛び出して行くからである。
その結果が、12−13節に記されている。
80:12 あなたは何ゆえ、そのかきをくずして/道ゆくすべての人にその実を/摘み取らせられるのですか。
80:13 林のいのししはこれを荒し、野のすべての獣はこれを食べます。
石垣(ガーダル)は、包囲、壁、フェンスの意味である。
主は、その外に出て行ってしまった人を戻すため、敢えて、その人からガードを取り除かれる。
主こそまことに羊飼い、羊の門であり、主の御言葉の群れから離れるなら、いのししに、良いように、よってたかって食い物にされる。
イエス様の、囲いの内側にいるなら、安全である。だから、御言葉から離れてはならない。
80:14 万軍の神よ、再び天から見おろして、このぶどうの木をかえりみてください。
ぶどうの木は、私達・神の民を象徴する。
イザヤ5章では、甘いぶどうを植えたはずなのに、酸っぱいぶどうがなってしまった。
主にとどまらない、御言葉から離れる、とするなら、主の喜ばれる甘いぶどうの実は結ばせず、ただ、酸っぱいぶどうしか結ばせない。
それなら、切り離され、投げ捨てられ、いのししに、よってたかって食い物にされてしまう。
しかし、それは、立ち返るためには、良い体験となる。
放蕩息子のように、ヨナの魚の腹での3日間のように。
80:15 あなたの右の手の植えられた幹と、みずからのために強くされた枝とを/かえりみてください。
枝は、ヘブライ語ではベン、すなわち、息子である。
新共同訳では、そのように訳している。
自分は子である、という事を思い返すべきであり、同時に、主に思い返していただく祈りを捧げるのだ。
放蕩息子は、父なるお方の外に出て、さんざんな目にあった末、その保護の下に戻ってきた。(ルカ15章)
80:16 彼らは火をもってこれを焼き、これを切り倒しました。彼らをみ顔のとがめによって滅ぼしてください。
80:17 しかしあなたの手をその右の手の人の上におき、みずからのために強くされた人の子の上に/おいてください。
右は、力をあらわす。
かつて、主の力の御手の内に覆われて、強くされた神の民だったのに、神から離れ、御言葉から離れてしまった。
そうすると、主の御手、また主の御顔は、「とがめ」モードになってしまう。
主の御顔は、祝福ではなく、恐ろしい、災いを降り注がせるものとなってしまう。
主の御手を、御顔を、「恵み(ハーナン)」モードにするためには、御言葉に戻り、御言葉の交わりに戻る事である。
80:18 そうすれば、われらはあなたを/離れ退くことはありません。われらを生かしてください。われらはあなたのみ名を呼びます。
80:19 万軍の神、主よ、われらをもとに返し、み顔の光を照してください。そうすればわれらは救をえるでしょう。
彼らは、自分が主を裏切っている事がわからなかった。
御言葉を無視し、自分のよかれで生きていた事が、実は、主を裏切っていた、という事が。
御言葉を離れた、好き勝手な祈りを、主は、受け入れない。
主の群れから離れ、好き勝手に生きるなら、いのししに囲まれ、食い物にされてしまう事が、この詩篇に書かれてあった。
そのようになったら、すぐに主の御言葉へと戻り、主の御心は何であり、何が主に喜ばれ、何が主に忌み嫌われるのか、調べるべきである。
私達は、いつでも、主の保護下から離れず、主の御言葉どおりに歩み、祝福の法則で生きるべきなのだ。
ルツ記2:8 ボアズはルツに言った、「娘よ、お聞きなさい。ほかの畑に穂を拾いに行ってはいけません。またここを去ってはなりません。わたしのところで働く女たちを離れないで、ここにいなさい。
主の囲いの中で、御言葉の交わりの中から離れないなら、豊かに守られ、養われ、富む者となるのだ。