メッセージ - 羊の間をもさばく、まことの羊飼いであられる主(エゼキエル34:17-31)
羊の間をもさばく、まことの羊飼いであられる主(エゼキエル34:17-31)
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- 執筆 :
- pastor 2021-8-16 15:43
エゼキエル書 講解説教
羊の間をもさばく、まことの羊飼いであられる主(エゼキエル34:17-31)
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前回の箇所は、悪辣な羊飼いに対するさばきについて、記されていた。
悪辣な羊飼いとは、主から託された、養うべき弱い羊を養わず、心に留めず、むしろ、主から託された大切な羊たちを、食い物にするような者達だ。
主はそのような者をさばかれるが、彼らの悪辣なやり方に見習って、悪辣なやり方を仕出かす羊も、群れの中に出て来る。
主は、そのような悪辣な羊をもさばく事を、今回の箇所で示している。
エゼキエル34:17 主なる神はこう言われる、あなたがた、わが群れよ、見よ、わたしは羊と羊との間、雄羊と雄やぎとの間をさばく。
ここに、やぎが出てくる。羊ならぬ、やぎが。
やぎの性質は、18-19節に示されている。
エゼキエル34:18 あなたがたは良き牧場で草を食い、その草の残りを足で踏み、また澄んだ水を飲み、その残りを足で濁すが、これは、あまりのことではないか。
34:19 わが羊はあなたがたが、足で踏んだものを食い、あなたがたの足で濁したものを、飲まなければならないのか。
ここに記されているやぎは、主が導いてくださった、良き牧場で、普通に草をたべて安息するだけでは飽き足らず、自分が食べて満腹したら、残りを足で踏みつける、というような事をする。
憩いの水のほとりで、羊も、やぎも、飲む。
しかしやぎは、自分が飲んだら、水の残りの澄んでいる所を足でにごし、羊たちはその濁った水を飲まなくてはならない。
それは100%、悪意でしかない。
教会における聖徒の交わりや礼拝は、イエス様に導かれた羊たちが、良い牧場で良いものを食べているような、うるわしいものであるが、それを敢えて汚し、にごし、まぜものをするような者を、主が裁かれる。
今回のオリンピックのマラソン競技で、フランスの代表モラ・アンドゥニ選手は、給水所のペットボトルを全部なぎ倒し、他の選手が水を飲めないようにして、自分だけは飲んで行った事が議論になった。
自分が飲んだら、他の競争相手には飲ませないようにして、自分に有利に、相手を不利に陥れる。
そのような蹴落とし競争が、世では普通にまかり通っているが、聖なる教会の交わりの中で、そういう事をする者は、主が裁かれる。
エゼキエル34:20 それゆえ、主なる神はこう彼らに言われる、見よ、わたしは肥えた羊と、やせた羊との間をさばく。
34:21 あなたがたは、わきと肩とをもって押し、角をもって、すべて弱い者を突き、ついに彼らを外に追い散らした。
34:22 それゆえ、わたしはわが群れを助けて、再びかすめさせず、羊と羊との間をさばく。
主の牧場には、乏しい者がいないはずなのに、ここには、肥えた羊だけでなく、痩せた羊もいる。
なぜ、痩せた羊がいるのか。
それは、力ある羊が、おなかのすいた羊を押しのけて、自分だけが食べて、それを残さないからだ。
パウロは、そのような事をする者がいるコリント教会に、警告を与えている。(1コリント11章)
コリント教会の中には、主の愛さんを食べに来ている人の中で、われ先に食べて他に残さない者がいた事が、記されている。
当時の教会は、奴隷階級の聖徒もおれば、自由階級の聖徒もいた。
奴隷階級の人は、主人のために働いて、全部終えてからやっと教会の交わりに戻ってくるのに、自由階級のある人は、ひまをもてあまして教会に入り浸り、誰か、聖徒が食事をふるまうと、それを残らず飲み食いし、酔っ払っているのに、後からようやく入って来た聖徒たちには、何も残っていない、という有様が続いていたのを、パウロは責めている。
1コリント11:22 あなたがたには、飲み食いをする家がないのか。それとも、神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。わたしはあなたがたに対して、なんと言おうか。あなたがたを、ほめようか。この事では、ほめるわけにはいかない。
この箇所の直後、パウロは、有名な聖餐の制定を記している。(23-31節)
そこで命じているのは、食べるにしても、飲むにしても、主を覚えて、主を記念して、これを行いなさい、という事である。
教会における礼拝も、飲み食いも、主を覚え、主を記念すべきものである。
なぜなら教会は、「キリストの体」であるからだ。
それをわきまえないで、単に飲み食いをむさぼるために来る者は、その、飲み食いによって、自分にさばきを招く、とパウロは警告する。
そのさばきとは、弱い者になったり、病人になったり、また、眠った(死んだ)りと、実に恐ろしいものである(29-30節)。
事実、教会の主であらるキリストを一切覚えず、心を留めず、単に、飲み食いや話し相手求めに教会に来ている者は、弱い者になったり、病人になったりする。
聖餐式でよく勘違いされる事は、聖餐にあずかるのにふさわしいか、ふさわしくないかは、主のみからだをわきまえているか、いないかであって、決して、自分が罪を犯したか、犯していないか、ではないのだ。
もし、罪を犯した、という自覚があるなら、なおのこと、罪をきよめるイエス様の血潮を「おぼえて」、断然、聖餐にあずかるべきなのだ。
むしろ「ふさわしくない者」とは、教会がキリストのみからだである事をわきまえず、単に飲み食いのために、あるいは、単におしゃべりのために教会を利用して、礼拝の御言葉のパンを汚したり、聖徒の交わりという飲み水を足で濁したりするような者の事である。
もちろん、弱さや無知の故に、意図せず、そうした事をしてしまう人もいる。
そういう人は、「よくなりたい」という意図をもって教会に集い、主に助けを求めるなら、主はその人を見捨てたりせず、大いに助けの御手を差し伸べてくださる。
しかし、意図して礼拝や聖徒の交わりを汚すような悪辣な者については、たとえ、聖徒は見抜けなくても、主ご自身が見抜いておられ、その者を、そこから取り除いてくださる。
さらに続く節には、真の牧者が現れて、その群れを正しく統治し、群れが祝福に入る様が記されている。
エゼキエル34:23 わたしは彼らの上にひとりの牧者を立てる。すなわちわがしもべダビデである。彼は彼らを養う。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。
34:24 主なるわたしは彼らの神となり、わがしもべダビデは彼らのうちにあって君となる。主なるわたしはこれを言う。
主は、ひとりの牧者を、すなわち、「しもべダビデ」を立てられる。
ダビデは、主から認められる良い羊飼いであったが、良い羊飼いとは、人格が良いとか、統率力があるとか、思いやりがある、といった評価基準ではない。
良い羊飼いの条件は、「しもべ」であるかどうかである。
主の意向を外した者は、どんなに人格が良くても、統率力があっても、良い羊飼いではない。
「しもべ(エベド)」とは、主人の意向をそのまま行う人の事であり、主の意向をそのまま行う「しもべ」こそ、神の国における良いリーダーなのである。
イエス様は、父なる神様の意向を、そのまま行ったゆえ、父なる神様から「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と言われた。
そして、しもべダビデが、すなわち、イエス様が来て、平和の統治がなされる様が、25-31節に記されている。
エゼキエル34:25 わたしは彼らと平和の契約を結び、国の内から野獣を追い払う。彼らは心を安んじて荒野に住み、森の中に眠る。
34:26 わたしは彼らおよびわが山の周囲の所々を祝福し、季節にしたがって雨を降らす。これは祝福の雨となる。
34:27 野の木は実を結び、地は産物を出す。彼らは心を安んじてその国におり、わたしが彼らのくびきの棒を砕き、彼らを奴隷とした者の手から救い出す時、彼らはわたしが主であることを悟る。
ここに、とても素晴らしい祝福が約束されているが、それは無条件に与えられるものではない。
ここに記されている祝福が与えられる条件は、25節に示されている「契約」を守り行う事である。
現在、私達が守り行う契約とは、私達が持っている旧新契約聖書の内容である。
私達は主の前に誠実であるべきなのだ。そうするなら、さらなる祝福の実態があらわれ、もはや、他からかすめられる事も、はずかしめられる事もなく、主がまことの牧者となって、安らかに導かれるようになる。
エゼキエル34:28 彼らは重ねて、もろもろの国民にかすめられることなく、地の獣も彼らを食うことはない。彼らは心を安んじて住み、彼らを恐れさせる者はない。
34:29 わたしは彼らのために、良い栽培所を与える。彼らは重ねて、国のききんに滅びることなく重ねて諸国民のはずかしめを受けることはない。
34:30 彼らはその神、主なるわたしが彼らと共におり、彼らイスラエルの家が、わが民であることを悟ると、主なる神は言われる。
34:31 あなたがたはわが羊、わが牧場の羊である。わたしはあなたがたの神であると、主なる神は言われる」。