メッセージ - 呪われてしまうエドムの性質を取り除け(エゼキエル35章)
エゼキエル書 講解説教
呪われてしまうエドムの性質を取り除け(エゼキエル35章)
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35:1 次のような主のことばが私にあった。
35:2 「人の子よ。顔をセイルの山に向け、これについて預言して、
35:3 言え。神である主はこう仰せられる。セイルの山よ。わたしはおまえに立ち向かい、おまえにわたしは手を伸ばし、おまえを荒れ果てさせ、荒廃した地とする。
35:4 わたしがおまえの町々を廃墟にし、おまえを荒れ果てさせるとき、おまえは、わたしが主であることを知ろう。
エゼキエル書は、33章から、39章まで、イスラエルの回復の預言が続いているが、それに先立って、回復の前に、イスラエルを虐げた者達へのさばきが予告される。
もっとも、イスラエルが虐げられていたのは、いわば、身から出た錆であった。
私達も、主を軽んじて歩んでいたなら、主は敵を起こし、敵を用いて苦しい目にあわせるかもしれない。
しかしそれは、主に立ち返らせるため、祝福を受ける性質へと、戻すためである。
そうして神の民が主に立ち帰る時、その回復とともに、神の民を不当に虐げた敵たちには、さばきが下される。
この章で示されているセイルは、エドム人の事であり、この章ではエドムに対するさばきが預言されている。
エドムは、ヤコブの兄エサウにつけられた別名であり、すなわちエドムは元々、イスラエルの兄弟の国である。
なぜ、神の民の兄弟・エドムがさばかれなくてはならないのか?
まずは、エドムの性質について見たい。
エドムの元々の名、エサウの名の意味は、「赤い」である。
ヤコブすなわちイスラエルと、エサウが、共に父の家に住んでいた頃、エサウは、獲物を追いかける事に夢中になりすぎて、死にそうになるまで、狩りを続けた。
父イサクの家は、別に食料に困っていなかったので、エサウは狩りをする必要は無く、狩りは純粋に、趣味としてやっていたのだ。しかも、寝食を忘れる程に。
自分に害を及ぼさない、殺す必要の無い動物を、わざわざ探し出し、追いかけ、狩る事が、彼にとって、三度の飯よりも好きな事だったのだ。
そうして、疲れ果て、死にそうになって帰って来た時、弟ヤコブは、レンズ豆の煮物を煮ていた。
『エサウはヤコブに言った、「わたしは飢え疲れた。お願いだ。赤いもの(アドム)、その赤いものをわたしに食べさせてくれ」。彼が名をエドムと呼ばれたのはこのためである。ヤコブは言った、「まずあなたの長子の特権をわたしに売りなさい」。』(創世記25:30-31)
ヤコブは、普段から長子の権利を奪おうと狙っていたので、このように迫ったのだが、エサウとしては、大した事として思っていなかった。
それで軽く口約束する。
25:32 エサウは言った、「わたしは死にそうだ。長子の特権などわたしに何になろう」。
25:33 ヤコブはまた言った、「まずわたしに誓いなさい」。彼は誓って長子の特権をヤコブに売った。
25:34 そこでヤコブはパンとレンズ豆のあつものとをエサウに与えたので、彼は飲み食いして、立ち去った。このようにしてエサウは長子の特権を軽んじた。
以上の事をした事から、エドムの性質は、俗悪である、と言われている。
ヘブル12:16 また、一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。
12:17 あなたがたの知っているように、彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。(NKJV: for he found no place for repentance, though he sought it diligently with tears.)
エサウは、後で祝福が奪われた時、滝のように涙を流したかもしれない。
しかし彼の心の中は、「悔い改め」という場所が、これっぽっちも、無かったのである。
悔い改めとは方向転換であり、自分のした事を悔い、止めるべき事を止め、するべき事をする事、のはずである。
その気持が無い、とするなら、いかに滝のように涙を流して「祝福を返してください」、と、何時間かけて願ったとしても、一切が無駄である。
父イサクは、エサウを愛していたので、本当に、エサウを祝福したかっただろう。
またエサウも、父イサクのやさしさや、子供を愛する思いにつけこんで、涙ながらに訴えた。
しかし、悔い改めの余地がこれっぽっちも無い彼に対して、イサクの口からつい出た言葉は、呪いの言葉だった。
つまり、主が、祝福してはならない、と意図している者は、どうしても祝福はできず、また、主が祝福する、と決めておられる人は、どうしても呪う事ができないのだ。(民数記23-24章)
とはいえ、エドムは当初、ヤコブよりも栄えた。
ヤコブの子孫が、エジプトで奴隷になっている間、エドムは、どんどん力を増して行った。(創世記36章)
そうして、俗悪な子々孫々を産んで行き、それが「エドム人」となった。
エドムはどう俗悪であるのか、オバデヤ書に詳しく記されている。
エドムは、兄弟の国が、バビロンによって攻められた時、知らぬ顔をし(オバデヤ書11節)、むしろ喜び(同12節)、イスラエルの敵と一緒に門に入って、財宝に手をつけ(13節)、逃げるイスラエル人の前に立ちはだかって、逃げられなくした。(14節)
モーセの時代も、平和の内に領土を通らせて欲しい、と言うイスラエルに対し、武力をちらつかせて、通せんぼした。(民数記20:14-21)
彼らが、バビロン捕囚の時にイスラエルにした事を、詩篇137篇の作者は、訴えている。
『主よ、エドムの人々がエルサレムの日に、「これを破壊せよ、これを破壊せよ、その基までも破壊せよ」と/言ったことを覚えてください。』(7節)
以上、エドム人の特徴は以下である。
・寝食を忘れるほどに獲物を探し、追いかけ、狩る事が、趣味。
・目先の肉欲を満たす事とひきかえに、祝福の相続権、という、大事なものを売ってしまう。
・悔い改めの余地が、心の中に「これっぽっち」も無い。
・兄弟が困っている時に助けず、むしろ、敵の側に立って一緒になっていじめる。
これは、サタンの性質だ。
サタン(サタナス)の意味は「敵」、また、悪魔(ディアボロス)の意味は「訴求者」「中傷者」である。
私達の中に、エドムの性質があるとするなら、本当に取り扱わなくてはならない。
イスラエルが、バビロンによって苦しめられたのは、確かに、イスラエルの身から出た錆だが、だからと言って、兄弟が散々な目に遭っている時、敵(サタン)の側に立って、一緒に誹謗・中傷し、攻め立てるなら、主は悪魔に敵対されるのと同様に、その者と敵対される。
もし、その責め立てられている兄弟姉妹が、悔い改めて、主に向かって叫ぶなら、主はその叫びを聞いてくださり、かえって、誹謗・中傷している者を裁かれる。
私達にも、もしかしたら、エドムのように、困っているの兄弟を、逆に苦しめ誹謗・中傷し、傷を上塗りするような身内がいるかもしれない。
しかし主は、主に救いを求める聖徒たちを、必ず守られる。
35:5 おまえはいつまでも敵意を抱き、イスラエル人が災難に会うとき、彼らの最後の刑罰の時、彼らを剣に渡した。
35:6 それゆえ、――わたしは生きている。神である主の御告げ。――わたしは必ずおまえを血に渡す。血はおまえを追う。おまえは血を憎んだが、血はおまえを追いかける。
35:7 わたしはセイルの山を荒れ果てさせ、廃墟とし、そこを行き来する者を断ち滅ぼす。
35:8 わたしはその山々を死体で満たし、剣で刺し殺された者たちがおまえの丘や谷や、すべての谷川に倒れる。
35:9 わたしはおまえを永遠に荒れ果てさせる。おまえの町々は回復しない。おまえたちは、わたしが主であることを知ろう。
実際、ここに預言された通り、今、エドム人(イドマヤ人)は、この地上から滅ぼされてしまっている。
エドム人は、バビロン捕囚の時までは栄えていたが、イエス様の時代になると、少なくなり、最終的には民族としては歴史から姿を消してしまった。
35:10 おまえは、『これら二つの民、二つの国は、われわれのものだ。われわれはそれを占領しよう。』と言ったが、そこに主がおられた。
二つの民、二つの国とは、イスラエル王国と、南ユダ王国である。
彼らがそこに侵入しようとした時、「そこに主がおられた」と書かれてある。
主は、二人でも三人でも主の民がいる集いのただ中におられ、また、神の民の家に、職場に、教会におられるのだ。
35:11 それゆえ、――わたしは生きている。神である主の御告げ。――おまえが彼らを憎んだのと同じほどの怒りとねたみで、わたしはおまえを必ず罰し、わたしがおまえをさばくとき、わたし自身を現わそう。
神の民に対してした事は、主に対してしたとして数えられている事に注目したい。
実際、サウロ(後のパウロ)が、教会を迫害した時、主は「なぜ”わたしを”迫害するのか」と言われた。
35:12 おまえはイスラエルの山々に向かって、『これは荒れ果てて、われわれのえじきとなる。』と言って、侮辱したが、主であるわたしがこれをみな聞いたことを、おまえは知るようになる。
35:13 おまえたちは、わたしに向かって高慢なことばを吐いたが、わたしはそれを聞いている。
主は、部屋の中で、ひそかに言った事も、聞いておられる。
エドムがイスラエルに対してした侮辱と高ぶりは、主ご自身に対するものとして、見なされた。
35:14 神である主はこう仰せられる。わたしはおまえを荒れ果てさせて、全土を喜ばせよう。
35:15 おまえは、イスラエルの家の相続地が荒れ果てたのを喜んだが、わたしはおまえに同じようにしよう。セイルの山よ。おまえは荒れ果て、エドム全体もそうなる。人々は、わたしが主であることを知ろう。
実際、歴史は、そのとおりになってしまった。
エドムは、父イサクから言われたとおり、弟ヤコブを前に、その身を低くしていれば、十分に存続できたはずである。
事実、彼らは、イスラエルに何も害していなかった時は、栄えた。
それなのに彼らは、わざわざイスラエルをいじめ、害して、災いを被った。
私達は、エサウの性質にこそ、気をつけるべきである。
私達には、獲物を探し、追いかけ、狩る性質が、無いだろうか。
目先の肉欲を満たすためには、神の民としての誇りを売ってしまうような性質は、無いだろうか。
それは、エサウのように呪われてしまう性質である。
むしろ、何かあったら、すぐに主に悔い改め、兄弟が困っているのを見たら、惜しみなく助ける幸いな性質を身につけて、いつも祝福がつきまとう皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!