メッセージ - 主の聖なる御名の回復によって始まる、祝福の回復(エゼキエル書36:16-38)
主の聖なる御名の回復によって始まる、祝福の回復(エゼキエル書36:16-38)
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- 執筆 :
- pastor 2021-8-23 7:59
エゼキエル書 講解説教
主の聖なる御名の回復によって始まる、祝福の回復(エゼキエル書36:16-38)
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イスラエルの回復が預言されているが、今回の箇所では特に、荒れ果てた土地の回復と、物質の回復と、人の回復と、そして、彼らの心と霊の回復が、預言されている。
ここで忘れてはならないのは、主人公は、人ではなく、主こそがイニシアチブを取られる主人公である、という事である。
それ故、人の回復の前に、まず回復しなければならないのは、主の御名であり、その事が、この節で、再三強調されている。
36:16 主の言葉がわたしに臨んだ、
36:17 「人の子よ、昔、イスラエルの家が、自分の国に住んだとき、彼らはおのれのおこないとわざとをもって、これを汚した。そのおこないは、わたしの前には、汚れにある女の汚れのようであった。
36:18 彼らが国に血を流し、またその偶像をもって、国を汚したため、わたしはわが怒りを彼らの上に注ぎ、
主はまずイスラエルの汚れた行いとわざを思い起こさせた。
なぜなら、罪を犯した人が回復されるためには、まず、自分がした事を、思い起こし、それを悲しみ、もう二度とそれをしない、という思いが起こされ、悔い改める事が、必要だからだ。
彼らは、 行ないとわざとによって、その地を汚した。
その行ないは、主の御前では、さわりのある女のように汚れている、と言われた。
さわりのある女は、彼女に触れる人も、彼女が触れたものや、座ったりしたものに触れるものも、汚れてしまう事が、律法において示されている。
彼らは、どんな行いとわざによって、その土地を汚したか。
それは、流した血と、偶像によってである。(18節)
その故に、主は、憤りを彼らに注いで、彼らは諸国の民の間へと散らされ、国々に追い散らされた。
主は、彼らの行ないとわざとに応じて、さばかれたのだ。(19節)
追い散らされた彼らは、行った先の国々でも、主の聖なる名を汚した。(20節)
そこで、主は、彼らによって汚されてしまった、主の聖なる御名を回復するために、事を起こされる。
主が事を起こされる理由は、イスラエルの人々のためでは無い。
彼らには、そのような分は、一切、無い(22節)。
ただ一方的に、主の御名の聖である事を、異邦人に、全世界に、知らしめるのである。
36:21 しかしわたしはイスラエルの家が、その行くところの諸国民の中で汚したわが聖なる名を惜しんだ。
36:22 それゆえ、あなたはイスラエルの家に言え。主なる神はこう言われる、イスラエルの家よ、わたしがすることはあなたがたのためではない。それはあなたがたが行った諸国民の中で汚した、わが聖なる名のためである。
36:23 わたしは諸国民の中で汚されたもの、すなわち、あなたがたが彼らの中で汚した、わが大いなる名の聖なることを示す。わたしがあなたがたによって、彼らの目の前に、わたしの聖なることを示す時、諸国民はわたしが主であることを悟ると、主なる神は言われる。
この、21-23節には、主の御名の「聖(コデシュ)」である事が、何度も繰り返されている。
コデシュとは、神聖である事、別物である事、切り離されたものである事を意味する。
主の御名は、世のあらゆる名前や言葉とは、切り離して、神聖なものとして、特別視しなくてはならない。
主の御名が、初めて示されたのは、出エジプト記3:14である。
『神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者(イェヒエ・アシェル・イェヒエ)」。』
「イェヒエ」は、存在をあらわすbe動詞「ハヤー」の、一人称単数未完了形である。
ヘブライ語で、未完了形は、動作が未だ終わっておらずにずっと続いている事をあらわす。
すなわち、神の「在る」は、過去・今・未来に至る、永遠の「ある」だ。
それが、主の名前であり、アイデンティティである。
私達にとっての主の御名は、イエス様の名である。
イエス様は言われた。父とわたしは、一つです、と。
そして、わたしの名によって求めることは何でも、それをする、それは、御父が子によって栄光をお受けになるため、と、繰り返して言われた。(ヨハネ14:13-14)
これほどに尊い主の御名は、汚されてはならない。
特別視しなくてはならない。
しかし、神の民によって汚されてしまった。
それを主は、聖なる御名の回復のために、ご自身が事を起こされる。
そのために主がなされる事が、続く箇所において示されている。
まずは、神の民を、諸国の民の間から連れ出し、全ての国々から集め、彼らを、彼らが住むべき地へと、連れて戻す事。(24節)
そして彼らに、きよい水を振りかけ、清める事である。(25節)
イエス様は、十字架の上で、血と水を流して下さった。
私達は、それによって清められ、全く新しく創り変えられた。
新しく創り変えられた結果、何が与えられるか?
それは、新しい心、新しい霊である。
『わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。』(26節)
イエス様の種まきのたとえ話に、岩地に蒔かれた種の話が出てくるが、岩地は、根っこがそれ以上伸びず、蒔かれた御言葉は、根を出してもすぐに枯れてしまう。
そのように、イスラエルは、御言葉が与えられても、すぐに罪を犯し、懲らしめられ、戒められても、すぐにまた罪を犯す歴史を、繰り返して来た。
主は、その、石の心を取り除き、いつまでも主に仕えられる「新しい心」「新しい霊」を与える、と、約束して下さった。
それが与えられるなら、主の言葉どおりに歩み、行動できるようになる。
36:27 わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる。
さらには主は、その土地へ戻し、その地に住まわせ、物質的祝福をも、賜って下さる。
36:29 わたしはあなたがたをそのすべての汚れから救い、穀物を呼びよせてこれを増し、ききんをあなたがたに臨ませない。
36:30 またわたしは木の実と、田畑の作物とを多くする。あなたがたは重ねて諸国民の間に、ききんのはずかしめを受けることがない。
物質の回復において必要な条件は、心と霊の回復であり、心と霊の回復に必要な条件が、「主の御名こそ聖である」ことの回復である。
そして、主の御名が聖である事を、思い知るために、必要なものが、自分の罪を恥じ入る心である。
以下に記されている。
36:31 その時あなたがたは自身の悪しきおこないと、良からぬわざとを覚えて、その罪と、その憎むべきこととのために、みずから恨む。
36:32 わたしがなすことはあなたがたのためではないと、主なる神は言われる。あなたがたはこれを知れ。イスラエルの家よ、あなたがたは自分のおこないを恥じて悔やむべきである。
私達も、回復したいのであれば、自分の悪い行ないと、良くなかったわざとを思い出し、自分の不義と、忌みきらうべきわざを心底恥じ、悔やむ感性が必要である。
罪や汚れを「恥じ入る」心があるなら、自分をきよくしようという努力が湧いて、生活が回復されて行くが、恥じ入る心が無いなら、それが沸き起こって来ず、生活を回復しようともしない。
日本人の高い道徳性は、この「恥」の感性が高いからであろう。
それが回復する時、主は、荒れ果てた地を回復される事を約束される。
36:33 主なる神はこう言われる、わたしは、あなたがたのすべての罪を清める日に、町々に人を住ませ、その荒れ跡を建て直す。
36:34 荒れた地は、行き来の人々の目に荒れ地と見えたのに引きかえて耕される。
36:35 そこで人々は言う、『この荒れた地は、エデンの園のようになった。荒れ、滅び、くずれた町々は、堅固になり、人の住む所となった』と。
36:36 あなたがたの周囲に残った諸国民は主なるわたしがくずれた所を建て直し、荒れた所にものを植えたということを悟るようになる。主なるわたしがこれを言い、これをなすのである。
実際、1948年、イスラエルが再建国し、ユダヤ人が戻ってきた。
それ以前は、沼地や荒れ地だったが、彼らが戻ってきた時、彼らはアブラハムにならって、ぎょうりゅうの木を植えた。
その結果、結果、そこはさかんに作物を産出する地となった。
土地の面積としては、四国ほどしか無いのに、たくさんの農産物を外国へ輸出するほどに産物が採れるようになったのだ。
さらに主は、人を戻し、人を増やす約束をも、しておられる。
36:37 神である主はこう仰せられる。わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、次のことをしよう。わたしは、羊の群れのように人をふやそう。
36:38 ちょうど、聖別された羊の群れのように、例祭のときのエルサレムの羊の群れのように、廃墟であった町々を人の群れで満たそう。このとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」
主が戻される人々は、「羊」の群れのよう、と繰り返されている。
例祭の時の羊は、主へと捧げられるいけにえである。
そのような主に捧げられた民が、大挙をなして、戻ってきて、廃墟であった町々に住むようになるのである。
とても素晴らしい事である。
しかし、これらの事をなされる理由は、「あなたのためではない」と言われた。
それは異邦人に、つまりは全世界に、主の栄光をあらわすためである。
主が異邦人に栄光をあらわされる理由は、異邦人を救いへと導くためなのだ。
この、素晴らしい事をして下さった主の御名こそ、大いにほめたたえられるべきである。