メッセージ - 主が聖別して下さった故に(エゼキエル37:15-28)
エゼキエル書講解説教
主が聖別して下さった故に(エゼキエル37:15-28)
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4-5章において、主は、エゼキエルによる「実演」を通しての預言を与えられた。
粘土板に包囲されたエルサレムの町を彫って、自分とこの粘土板との間に鉄の平なべを立てたり、左わきを下にして横たわったり。
その時は、バビロン捕囚前で、それらの実演は、イスラエルの民に警告を与えるための、実演の預言だった。
そしてバビロン捕囚後、久しぶりの、実演による預言をするよう、主は、エゼキエルに指示された。
その内容は、希望に満ちたものだった。
37:15 主の言葉がわたしに臨んだ、
37:16 「人の子よ、あなたは一本の木を取り、その上に『ユダおよびその友であるイスラエルの子孫のために』と書き、また一本の木を取って、その上に『ヨセフおよびその友であるイスラエルの全家のために』と書け。これはエフライムの木である。
37:17 あなたはこれらを合わせて、一つの木となせ。これらはあなたの手で一つになる。
ユダは、南ユダ王国を代表する部族、エフライムは、北イスラエル王国を代表する部族である。
それを象徴する2つの木を、彼の手の中で、ひとつにしなさい、と言われた。
なお、ここの「木」は、ヘブライ語で「エツ」、意味は、木、棒、杖で、新改訳では「杖」と訳されている。
日本語で「杖」と訳されるヘブライ語は、他にも「シェベット(19節)」、「マテー(創世記38:18)」があるが、いずれも、一族や部族、権威のしるし、という意味も持っている。
創世記38章では、ユダの息子嫁タマルは、彼の子シェラが夫として与えられないのを見ると、彼女は遊女の格好をして、ユダの前に現れた事が記されているが、彼女を遊女だと思ったユダは、彼女と寝る報酬の証拠のひとつとして、「ユダの杖」を預けた。
タマルは、この時に身ごもり、ユダの部族は、この時タマルから生まれた子達を通して広がって行き、ついには、支配の杖を持つダビデ王が出て、さらには、鉄の杖をもって全世界を治めるイエス・キリストが出るまでに至った。
37:20 あなたが文字を書いた木が、彼らの目の前で、あなたの手にあるとき、
37:21 あなたは彼らに言え。主なる神は、こう言われる、見よ、わたしはイスラエルの人々を、その行った国々から取り出し、四方から彼らを集めて、その地にみちびき、
37:22 その地で彼らを一つの民となしてイスラエルの山々におらせ、ひとりの王が彼ら全体の王となり、彼らは重ねて二つの国民とならず、再び二つの国に分れない。
それが起こるとしたら、人間わざにはできない、神業と言わざるを得ない。
なぜなら北王国は、BC722年にアッシリヤによって滅ぼされ、全世界に散らされたが、アッシリアの政策は、戦争で捕虜とした国民を自分の文化に同化・吸収させていたため、今や、北イスラエル王国10部族はどこに行ってしまったのか分からなくなってしまっており、「失われた10部族」と言われている。
それでも、主は「する」と言っておられる。
主が「する」といっておられる、からには、その預言はやがて実現し、全世界は、神こそ主である事を知るようになるだろう。
それ以上に、散り散りになったイスラエル民族を集める、というのは、単に、血肉のイスラエルを集める以上の意味がある事を、続く節から知ることができる。
すなわち「新契約」によって、全世界から神の民がひとりの牧者、イエス・キリストの元に集められる約束である。
37:23 彼らはまた、その偶像と、その憎むべきことどもと、もろもろのとがとをもって、身を汚すことはない。わたしは彼らを、その犯したすべての背信から救い出して、これを清める。そして彼らはわが民となり、わたしは彼らの神となる。
この事は、新契約によって与えられる新しい心がなせるわざである。
『わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。』(エゼキエル36:26)
さらに、まことの牧者が彼らを治める約束が与えられる。
37:24 わがしもべダビデは彼らの王となる。彼らすべての者のために、ひとりの牧者が立つ。彼らはわがおきてに歩み、わが定めを守って行う。
37:25 彼らはわがしもべヤコブに、わたしが与えた地に住む。これはあなたがたの先祖の住んだ所である。そこに彼らと、その子らと、その子孫とが永遠に住み、わがしもべダビデが、永遠に彼らの君となる。
34章の「しもべダビデ」が、再び言及された。
良き「しもべ(エベド)」とは、主人の意向をそのまま行う人で、主の意向をそのまま行う「しもべ」こそ、神の国における良きリーダーである事を学んだ。
イエス・キリストこそ、父なる神から仰せられた事を、そのまま行い、十字架の死に至るまで、従順を貫かれた。
それで、父なる神は、すべてに勝る名を彼にお与えになったのである。
主の言葉への従順の度合いが、高ければ高いほど、すなわち、「主のしもべ」の度合いが、高ければ高いほど、主から多くを任せられ、より多くを支配するのである。
そして26節以降に、永遠の契約、新契約が預言されている。
37:26 わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これは彼らの永遠の契約となる。わたしは彼らを祝福し、彼らをふやし、わが聖所を永遠に彼らの中に置く。
37:27 わがすみかは彼らと共にあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわが民となる。
主は、契約によって彼らを祝福し、増やし、そしてなんと、彼らの中に聖所を置く、というのだ。
新約においてはまさに、私達こそ神の神殿であり、私達の内に、キリストが住み、聖霊が住んでおられる。
主が「聖別」して下さるからである。
37:28 そしてわが聖所が永遠に、彼らのうちにあるようになるとき、諸国民は主なるわたしが、イスラエルを聖別する者であることを悟る」。
「聖別」のヘブライ語は「カダシュ」であるが、聖別には、二つの意味がある。
一つは「委任する」という意味である。
主は、その民に、これこれの事をする者として任命してくださる。
主からの任命があるなら、知恵と力とわざが泉のように湧き上がり、疲れない。
油注ぎもないのに、また任命もないのに、その仕事に勝手なあこがれをもって、しようとすると、何も思い浮かばず、また力も沸かない、ただ苦痛な日々を送るしかない。
逆に、任命が与えられたのにそれをしないとするのも、同じくただ苦痛な日々を送るしかない。
「聖別」の 二つ目の意味は、「聖とする」である。
聖別とは、簡単に言えば「分離」であり、けがれた者からきよい者へ、悪どい者から良い者へ、俗なる者から聖なる者へ、主から遠かった者が、主に近い方向性で、どんどん分離して行くのだ。
主の御名のうちの一つに、「聖別する主(Jehovah Mekaddishkem ジェホバ・メカディシケム)」がある。
それは、出エジプト記31:13において示されている。
出エジプト記31:13 「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのものである。
31:14 それゆえ、あなたがたは安息日を守らなければならない。これはあなたがたに聖なる日である。すべてこれを汚す者は必ず殺され、すべてこの日に仕事をする者は、民のうちから断たれるであろう。
聖別された民にとって必須の条件は、安息日を守ること、すなわち、創世記1−2章にある通り、主が全てを完成し、安息に入った事を、私達もおぼえる事である。
もし、主の安息を覚えず、敢えてその日に世の仕事をして、主の完成してくださった事が、あたかも不完全であるかのようにみなすなら、その者は、神の民から絶たれる事が書かれてある。
主は、主を羊飼いとする人には、油を注いで、聖別し、また任職して下さる。
それも、敵の面前で。
『あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。』(詩篇23:5)
主を敬わない敵と、主を敬う主の民を、主がご覧になる時、主は、主を敬う側に御顔を向け、敵の面前で彼らに食宴を設け、そして油を注いで下さるのだ。