メッセージ - 性行為が「恥ずかしい」理由(レビ記15:16-24)
性行為が「恥ずかしい」理由(レビ記15:16-24)
以下の神様の指示も、現代の価値観で見るなら、不愉快に思えるかもしれない。
『人がもし精を漏らすことがあれば、その全身を水にすすがなければならない。彼は夕まで汚れるであろう。すべて精のついた衣服および皮で作った物は水で洗わなければならない。これは夕まで汚れるであろう。男がもし女と寝て精を漏らすことがあれば、彼らは共に水に身をすすがなければならない。彼らは夕まで汚れるであろう。また女に流出があって、その身の流出がもし血であるならば、その女は七日のあいだ不浄である。すべてその女に触れる者は夕まで汚れるであろう。』(レビ記15:16-19)
男性が子種を流し出した場合、女性が生理で経血を流した場合、男と女が性行為を行った場合、いずれも「汚れ」の状態となるため、水で洗わなくてはならず、夕方まで汚れるとされる。
経血が排出された女性は七日間汚れ、彼女が座った物も、それらに触れた人も、汚れるとされる・・・。差別や人権の観点から見るなら、ひどい話に聞こえるかもしれないが、私達キリスト者が御言葉と向き合う時、自分の快・不愉快の判断基準を、持ち込むべきではない。
「清い・汚れている」を定められるのは主であり、主が定められた以上は、その背後にどんな真理が隠されているのか、御言葉を根拠に解き明かしていくべきである。
神の基準では、男性・女性に限らず、性器からの漏出や、性行為は、「汚れ」というカテゴリに入る。
いのちを生み出す上で必要な生体活動や、すばらしいはずのその行為が、どうして「汚れ」になってしまったのだろう。
その原因は、創世記に記されている。
『神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。』(創世記1:26-28)
いのちを生み出すための活動は、元々、「生めよ、ふえよ」という祝福の命令に叶った、神の似姿を増殖させる、聖なる、素晴らしき良きものだった。
『それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。』(創世記2:24-25)
ここに、何のやらしさも、やましさも、感じられない。
二人は一つ肉となる。罪なき人の「肉」は、汚れたものでも、恥ずかしいものでも、全然なかった。
一体、いつから、性にまつわる事を、恥ずかしいと思うようになったのか?
それは、善悪を知る知識の木の実を食べた「直後」である。
『女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。』(創世記3:6-7)
目が開かれ、神のように善悪判断をするようになった時、彼らが真っ先に知ったのは、自分たちが裸である事。
そして、真っ先に覆い隠したのは、腰、すなわち、生殖器だった。
男性器・女性器は、人が罪を犯す前、神の聖なる似姿を増やしていくための、御心に叶った、素晴らしき良きものだったのが、人が罪を入れ込んでしまった結果、大いなる大逆転し、罪を産んで増やしていくための、御心を損なう、汚れた、恥ずかしむべきものとなってしまったのだ。
聖なる神の似姿を増やしていく、最も良き事が、邪悪な罪をはびこらせる、最も忌むべき事となってしまう。
だから、アダムとエバは真っ先に、そこを隠したのではなかろうか。
事実、性の乱れによって、人類は、奈落を転げ落ちて行くかのように悪い方向へ向かった。
エバが最初に産んだカインが、早速、弟殺しの殺人者となったのを筆頭に、ノアの時代に至るまで、神の子たちは、人の娘達と不自然な性関係を持ち、そうしてネピリムが生まれ、人の悪がますます増大して行き、ついには、世界は一度、水によって滅びるに至ってしまった。
それ故、神は、生殖器から出るものも、性行為も、「汚れ」とされたのではなかろうか。
この、性の乱れによる悲惨さから救われる唯一の道は、イエス・キリストを信じる事によって、神の子として生まれ変わる事である。
アダム以来、罪がはびこり呪われてしまった被造物は、キリストに贖われた人達、すなわち神の子達のあらわれを待っているのだ。
『被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。
実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。』(ローマ8:19-23)
人は、性的な事に羞恥心を覚える。それはアダム以降の人間には、正当な感覚である。
しかし、その正当な「羞恥心」という感覚を、意図的にねじ曲げているが故に、不自然で、歪んだ「性」をはびこらせているのが現代であり、ネピリムが闊歩していた時代のごとく、罪を、悲惨さを、大量に産み出している。
それ故、私達がレビ記に記されている事を読む時、私達は、へりくだるべきであり、私達の側に罪がある事を、覚えなくてはならない。