メッセージ - 祝福のための呪いの宣言(申命記27:11-26)
祝福のための呪いの宣言(申命記27:11-26)
Youtube動画
27:11 その日またモーセは民に命じて言った、
27:12 「あなたがたがヨルダンを渡った時、次の人たちはゲリジム山に立って民を祝福しなければならない。すなわちシメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ヨセフおよびベニヤミン。
27:13 また次の人たちはエバル山に立ってのろわなければならない。すなわちルベン、ガド、アセル、ゼブルン、ダンおよびナフタリ。
27:14 そしてレビびとは大声でイスラエルのすべての人々に告げて言わなければならない。
27:15 『工人の手の作である刻んだ像、または鋳た像は、主が憎まれるものであるから、それを造って、ひそかに安置する者はのろわれる』。民は、みな答えてアァメンと言わなければならない。
約束の地に入った時には、12の呪いの宣言と、それに対する民の「アーメン」の宣言をしなさい、と命じられている。
申命記11:29 あなたの神、主が、あなたの行って占領する地にあなたを導き入れられる時、あなたはゲリジム山に祝福を置き、エバル山にのろいを置かなければならない。
ここで、(祝福と呪いを)「置く」のヘブライ語は「ナタン」、与える、付与する事を意味する。
つまり、トーラーを宣言し、アーメンする事は、祝福と呪いを付与する行為なのである。
だから、レビ人が「**する者は呪われる」、と、12ののろいの言葉を大声で宣言し、民が、それにアーメンを発した時、その祝福と呪いが効力を発するようになるのだ。
27:14 そしてレビびとは大声でイスラエルのすべての人々に告げて言わなければならない。
27:15 『工人の手の作である刻んだ像、または鋳た像は、主が憎まれるものであるから、それを造って、ひそかに安置する者はのろわれる』。民は、みな答えてアァメンと言わなければならない。
27:16 『父や母を軽んずる者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
27:17 『隣人との土地の境を移す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
27:18 『盲人を道に迷わす者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
27:19 『寄留の他国人や孤児、寡婦のさばきを曲げる者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
27:20 『父の妻を犯す者は、父を恥ずかしめるのであるからのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
27:21 『すべて獣を犯す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
27:22 『父の娘、または母の娘である自分の姉妹を犯す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
27:23 『妻の母を犯す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
27:24 『ひそかに隣人を撃ち殺す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
27:25 『まいないを取って罪なき者を殺す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
27:26 『この律法(トーラー)の言葉(ダーバル)を「守り(クム)」「行わ(アーサー)」ない者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
ここの「守る」(クム)は、立つ、従う、確認する、参加する、保つ、の意味の、ヒフィル態未完了形。
ヒフィル態とは、『〜させる』という、使役動詞である。
つまり、トーラーの御言葉は、自分の意志でする、のではなく、「させられる」ものであるのだが、それを拒否する者は、呪われる、という意味である。
だから、呪われる人とは、
父母や霊的指導者によって、
御言葉に、立たせられる事を、拒否する人。
御言葉に、従うように、させられる事を、拒否する人。
御言葉を、確認するように、させられる事を、拒否する人、
御言葉に、参加させられる事を、拒否する人。
御言葉を、保つように、させられる事を拒否する人、
この箇所の宣言には、ひたすら、呪いしか無い。
御言葉を記す石灰で塗られた石が置かれるのも、呪いを置くエバル山のほうだった。
しかし、これを行うのは、祝福するため、と書いてある。(Jos_8:33)
結局、そのような事を、しない事、が、祝福なのである。
詩篇1:1にも、ある。
幸いな人とは、3つの「ず」の人だった。
詩篇1:1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
1:2 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。
1:3 このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。
人の世には、否応もなく、死がある。
なぜなら、罪の代価は死である、と書いてあるからだ。
私達に苦しみがあるのは、そのためである。
解決方法は、一つしか無い。
すなわち、私達が、罪を犯した、という事を、後悔する思い、と、罪を離れたい、という決心をもって、イエス・キリストに「赦して下さい」、と言う告白である。
イエス様は、私達に追い迫ってくる死を、解決するために、きてくださった。
私達がそれを告白するなら、告白したゆえに、私達の死に値する罪を、イエス様は御身に移し、十字架の上で、処罰して下さった。
呪いの宣言は、罪を避け、祝福を受け継ぐため。
罪は、見ないふりをしたり、臭いものに蓋をしたり、また、仕方ないと言って開き直ったりしているなら、呪いは留まったままである。
私達は、犯した罪をそのままイエス様に告白し、赦していただき、もうそこに戻らない事、そのものが、祝福なのだ。