メッセージ - 主の働き人として採用される人と、そこから除外されてしまう人(エゼキエル44:1-14)
主の働き人として採用される人と、そこから除外されてしまう人(エゼキエル44:1-14)
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- 執筆 :
- pastor 2021-10-18 11:55
前回までの所で、主は、新しい神殿の寸法や構成を示し、聖と俗とを切り分けるべき事を、示された。
その、聖と俗とを切り分ける領域は、外庭のさらに外側の、縦横五百さおの正方形の領域であった。(エゼキエル42:20)
それが定められると、東向きの外門から、神の栄光が入ってきた。(43章)
エゼキエル44:1 こうして、彼はわたしを連れて、聖所の東に向いている外の門に帰ると、門は閉じてあった。
エゼキエル44:2 彼はわたしに言った、「この門は閉じたままにしておけ、開いてはならない。ここからだれもはいってはならない。イスラエルの神、主が、ここからはいったのだから、これは閉じたままにしておけ。
エゼキエル44:3 ただ君たる者だけが、この内に座し、主の前でパンを食し、門の廊を通ってはいり、またそこから外に出よ」。
東向きの門(外庭の東向きの門)を、閉じたままにしておかなければならない理由は、イスラエルの神・主が、ここから入られたから、である。
そこでは、ただ、君主(民の上に立つ者)だけが特別に、主の前でパンを食べるために座る事ができる。
エゼキエル44:4 彼はまたわたしを連れて、北の門の道から宮の前に行った。わたしが見ていると、見よ、主の栄光が主の宮に満ちた。わたしがひれ伏すと、
エゼキエル44:5 主はわたしに言われた、「人の子よ、主の宮のすべてのおきてと、そのすべての規定とについて、わたしがあなたに告げるすべての事に心をとめ、目を注ぎ、耳を傾けよ。また宮にはいることを許されている者と、聖所にはいることのできない者とに心せよ。
神殿には、主の栄光が満ちている。
主の臨在があり、主の栄光がある神殿における「おきて」と「規定」について、主は、「心」に留め、「目」を注ぎ、「耳」を傾けて、「心せよ」、と言われたからには、私達も心するべきである。
続く節から、その内訳を要約すると、その神殿において、念入りに注意すべき事とは、汚れが入り込まないように、という事であり、その宮に入って奉仕ができる者と、宮に入れても、聖所には入れない者の区別が示されており、そして、なぜ「入れない」者が出たのかの理由が、以下に示されている。
エゼキエル44:6 また反逆の家であるイスラエルの家に言え。主なる神は、こう言われる、イスラエルの家よ、その憎むべきことをやめよ。
エゼキエル44:7 すなわちあなたがたは、わたしの食物である脂肪と血とがささげられる時、心にも肉にも、割礼を受けない異邦人を入れて、わが聖所におらせ、これを汚した。また、もろもろの憎むべきものをもって、わが契約を破った。
イスラエルの家全体は、神殿の中に、あらゆる忌み嫌うべき事を持ち込んで、主の怒りを引き起こした。
その様は既に、8章で示されていた。
そして、それらを持ち込んだ者とは、「心にも肉にも割礼を受けていない異邦人」であった。
その異邦人は、何が聖であり、何が俗であるのかもわきまえず、何が主に忌み嫌われるのか、という知識も無いため、主への恐れも無く、また御言葉に違反しているということも気づかないまま、大盤振る舞いして、神の忌み嫌うものを持ち込み、忌み嫌うべき事を行ったのだ。
しかも、異邦人が神殿で仕事をしてよいと許可したのは、最も神殿のきよさを守らなければならないはずの、レビ人だった。
現代の教会で、罠に陥りやすい事として、世の中では有能であっても、聖書の内容を知らず、神を恐れるという事を知らない人を、教会の要職につけてしまう、という事がある。
私達は、心の割礼を受けていない、肉に従って判断し行動する人を、教会の要職に据えてはならない。
そうでないと、なまじ「できる人」の説得力ある言い分によって、御言葉が阻害され、どんどん霊的にあさってな方向へ進ませ、気づいた時にはエゼキエル8章の状態になりかねないからだ。
神の国の事柄において、重要な事は、仕事のできる・できないではなく、神を恐れる心を持っているか・いないかである。
パウロは、肝心なのは「御霊による心の割礼」である、と書いている。
ローマ2:28 というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。
2:29 かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。
現代の教会における奉仕において重要な事は、肉に従うのではなく、御霊によって突き動かされる奉仕である。
その誉れは、人に依らず、神から来る。
エゼキエル44:8 あなたがたは、わが聖なる物を守る務を怠り、かえって異邦人を立てて、わが聖所の務を守らせた。
本来、レビ人、すなわち、主の働き人が、果たさなければならない聖なる務めを、彼らは果たさず、その代わり、割礼を受けていない異邦人を、働きに据えてしまったのだ。
エゼキエル44:9 それゆえ、主なる神は、こう言われる、イスラエルの人々のうちにいるすべての異邦人のうち、心と肉とに割礼を受けないすべての者は、わが聖所にはいってはならない。
現代、私達は、御霊による心の割礼が無い人を、奉仕者に立てたりして、礼拝を汚してはならない。
以上のように、汚れた価値観の者を、取り締まらず、のさばらせて、聖なる領域に汚れを持ち込ませたレビ人に対してのペナルティが、続く節に記されている。
エゼキエル44:10 またレビ人であって、イスラエルが迷った時、偶像を慕い、わたしから迷い出て、遠く離れた者は、その罪を負わなければならない。
本来、神から迷い出た人を、真っ先に連れ戻すべきは、レビ人たちなのに、彼ら自身が、主から迷い出て、離れて行ってしまったのだ。
それでレビ人たちは、その罪を負わなければならなくなってしまった。
エゼキエル44:11 すなわち彼らはわが聖所で、仕え人となり、宮の門を守る者となり、宮に仕えるしもべとなり、民のために、燔祭および犠牲のものを殺し、彼らの前に立って仕えなければならない。
エゼキエル44:12 彼らはその偶像の前で民に仕え、イスラエルの家にとって、罪のつまずきとなったゆえ、主なる神は言われる、わたしは彼らについて誓った。彼らはその罪を負わなければならない。
彼らは本来、11節のとおり、主の宮の門を、汚れた者からガードしなければならない、はずだった。
しかし彼らはガードせず、汚れた者・無割礼のものを素通りさせ、その結果、主の宮は偶像礼拝だらけになり、8章のような惨憺たる有様になってしまったのだ。
私達は、教会という「主の宮」を、ガードしなければならない。
もし、ある兄弟姉妹が、教会や交わりに、汚れを持ち込もうとするなら、主の働き人である私達は、ガードするべきである。
そして、私達自身という「神殿」を、私達自身が、ガードしなければならない。
主の宮である私達自身の家庭や職場に、人間関係に、また、私達の電子機器の中に、汚れを持ち込ませてはならない。
そのガードをしないで、神殿を魑魅魍魎の温床にしてしまったレビ人に対するペナルティ内容が、以下にある。
エゼキエル44:13 彼らはわたしに近づき、祭司として、わたしに仕えることはできない。またわたしの聖なる物、および最も聖なる物に、近づいてはならない。彼らはそのおこなった憎むべきことのため、恥を負わなければならない。
エゼキエル44:14 しかし彼らには、宮を守る務をさせ、そのもろもろの務と、宮でなすべきすべての事とに当らせる。
レビ人は、主の宮の雑務に当ることは許されるが、祭司として、聖所で仕えることは出来ない。
私達も、汚れをガードしないままであるなら、主の働きの主要部分を任される事は、決して、無い。
たとえ人がそれを許しても、主が、その人を跳ね除けてしまわれるのだ。
神の国で、重要な働きを許可される人とは、たとえ、周囲がどんなに堕落したとしても、本人自身は、主に誠実を尽くし、忠実を尽くした人、のみである。
ツァドクの子孫であるレビの祭司が、まさにそうだった。
彼らは、イスラエル全体がいかに堕落しても、忠実に主に仕えたため、彼らだけは、聖所に入って重要な奉仕をする事ができる。(エゼキエル44:15-16)
私達は、時代がどうあれ、ツァドク一族のように、御言葉に記されている事を誠実に守り行うべきだ。
そうするなら、この終わりの時代、神の国を建て上げるために大いに、用いられる器として、用いられる用意が整うからだ。