メッセージ - 主が定められた祝福祈祷(民数記6:24-26)
主が定められた祝福祈祷(民数記6:24-26)
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今回の箇所は、大祭司が神の民イスラエルを、このように祝福しなさい、という、祝福祈祷文です。
キリスト教の礼拝では、両手を上げて祝祷しますが、イスラエルの祭司の祝祷の姿勢は、それとは違います。
まずヘブライ語の「ש」(シン)の文字を作り出し、そのようにした状態で、両手の親指・人差し指同士を合わせて、輪をつくり、ヘブライ語の「ס」(サメク)の文字を作り出して、それを空に向けます。
それでこの祝福祈祷文は、「サメク本文」とも呼ばれています。
ヘブライ語のシンは「聖である」という意味があり、同時に、「滅ぼす」という意味もあります。
つまり、神様が彼らを聖別し、彼らを蝕もうとするサタンの勢力を打ち滅ぼして下さるように、と、表現します。
そして両手を天に向けて「サメク」の語を作って宣布する事によって、神様が彼らを囲い、守って下さるように、と、象徴的に表しています。
民数記6:24 「願わくは主があなたを祝福し、/あなたを守られるように。
まずサメク本文は、「祝福する(バーラフבָּרַךְ)」という動詞の、PIEL態(能動・強意、断じて**する)で始まります。
主が、断じて、あなたを祝福して下さいますように!
という、強意が込められているのです。
「祝福(バーラフ)」の元来の意味は、「ひざをかがめる」、そこから「ひざまずく、あがめる、祝福する、賛美する、誉め称える」の意味となりました。
あたかも、親が、膝をついて子供の目線に合わせ、
よく食べなさい、健康になりなさい、と、愛の眼差しで目を向けてくれるかのように、
主がお一人一人を特別扱いし、特別保護対象にして下さいますように、という、素晴らしい願いが込められているかのようです。
私達も自分自身の守りのために祈る事は重要ですが、何より、私達自身が、テフィリン(御言葉暗唱)をする事によって、神様の言葉というバリケードを、私達自身に張り巡らす事が、何にも増して、有効です。
なぜなら、せっかく祝福を祈ってもらっても、本人自身が、祝福の囲いから出るような性質、つまり、罪や呪いの言動をする思考パターンがあるとするなら、たとえ祝福を受けても、たちまち祝福がその人から逃げてしまうからです。
祝福は、受けるにふさわしい人にとどまり、受けるにふさわしくない人から逃げていくものです。
テフィリンをして、昼も夜も御言葉を口ずさみ、思いと心に御言葉のバリケードを張った状態にしている人は、呪いをみずから招いてしまうような罪の性質が、どんどん消え去って行きます。
キリストとベリヤルは共存できないからです。
そして、ここにおける「祝福」の内訳は、「シャーマル」(שָׁמַר)、すなわち、「守られますように」です。
シャマールとは、羊飼いが羊を石垣で囲って、その垣の上にさらに棘つきの植物を乗せてバリケードを張る、というのが元々の意味で、そこから、厳重に守る、という意味になりました。
ですからこの宣言は、主が、あのサメクの字のように、囲いを設け、厳重にバリケードを張って、諸々の災いや、あらゆる悪しき勢力から、守って下さいますように、という宣言です。
民数記6:25 願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、/あなたを恵まれるように。
「恵まれるように」のヘブライ語「ハーナンחָנַן」は、元々、目下の存在に、親切にする、身をかがめる、好意を持つ、与える、などの意味があり、そこから「恵む」「憐れむ」「情けをかける」と、よく訳されます。
知っていたでしょうか?
私たちは、実は、神様の一方的な「ハーナン(恵み)」によって、生かされている事を。
私たちが生命を維持していく上で必要なもの、例えば空気や水、太陽、食べ物など、これらは全部、神様が一方的に与えて下さった恵みです。
そして、私達の「健康」も、神様から与えられている贈り物であるという事を、忘れてはなりません。
もし心臓が突然、正常に活動しなくなったなら、数分も、生きながらえる事はできません。
そうした事を意識せずに生きている人が、残念ながら大部分です。
その 私達の生存において、全ての必要が満たされるように、と、サメク本文の二番目の祝福として、「恵まれますように」が示されています。
その恩恵を、主が「御顔を照らす」事によって、私達に施してくださいます。
詩篇80篇では、『神よ。私たちをもとに返し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます。』という祈りが、3回も繰り返されております。(3,7,19節)
つまり、主が、ご自身の御顔をわたしに照らして下さるならば、神様との破壊された関係は、修復されます、もとの祝福された状態に戻ることができます、主が、ご自身の御顔をわたしに照らして下さるならば、破壊された生活が、建て直され、もとの、祝福の生活に戻ることができます、という祈りです。
主が、御顔を照らして下さるなら、そのような回復が可能である、と確信して祈るのが、詩篇80篇です。
ですから、主の御顔の光が向けられ、神様との関係や、生活が、回復されるために、まことの光であり、御言葉であられるイエス・キリストに帰るべきなのです。
民数記6:26 願わくは主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わるように
サメク本文・三番目の祝福は、主なる神様が、その御顔を私たちに「向けて(ナーサーנָשָׂא)」、平安(シャロームשָׁלוֹם)を与えられますように、という祝福です。
ここで、「向けて」と訳されたヘブライ語・ナーサーは、上げる、運ぶ、持っていく、などの意味があります。
いと高き神が、地に住む、低く卑しい人に向かって、御顔を「上げる」「運ぶ」とは、一体どういう事でしょうか。
それはちょうど、泣いている赤ちゃんを、母親が手で高く上げ、顔の近くへ運んで行き、顔と顔とを合わせ、じっと見つめ、赤ちゃんを安心させるような、様です。
平安と訳された「シャローム」というヘブライ語は、よく「平安」「安息」と訳されます。
基本的に、人は、安楽である事を求めますが、シャロームの平安は、その「楽」である事よりも、遥かに大きな意味を持っています。
この世の人々は、楽な状態を追求するために、お金を稼ぎ、楽な仕事を好み、楽な状態を目標として、生きます。
時には汚い手を使ってでも、「楽」を手に入れようともします。
しかし、そのようにして「楽」を追求する人々は、実は、神様の「シャローム」の平安を見い出す事は難しいのです。
サタンは、この世の富や地位、栄誉が由来の「安楽さ」をエサにして、人々を釣りますが、その目的は、人を揺さぶり、破壊し、死に至らしめる事です。
人は、サタンから、どんなに高い地位や栄誉、また富を得たとしても、真の安らぎは、得られません。
どれほどお金や地位を得たとしても、それを得るために犯してきた罪の数々が、彼らを追いかけ、ついには滅びへと導く、という事を、彼らは何となく知っているからです。
神様が下さるシャロームの平安は、そうした恐れが一切無い、世の何物にもまさる平安です。
それは、「楽」な状態であるか・ないかを超越した、揺るがない平安なのです。
主が与えて下さるシャロームは、たとえ、肉体的に、あるいは、金銭的に、どんなに苦しい状況であったとしても、心が100%「大丈夫だ」と、安息しているのです。
赤ちゃんは、お金や地位、名誉が無い、という理由では、泣きません。
ただ、お母さんやお父さんの顔が見れないと、泣きます。
そして、顔近くへと抱き上げられて、じっと見つめられると、安心して喜びます。
赤ちゃんには、そもそも、お金や地位といった、余計な知識は、ありません。
ただ自分を愛し、大切にし、守ってくれて、そして、全ての必要を備えてくれる、お父さんとお母さんこそ、かけがえの無い存在だと、生まれながら知っているからです。
また、お父さんやお母さんが、どんなに今の生活や将来や、お金の心配をしたからといって、子供は心配しません。
なぜなら子供は、お父さんやお母さんなら、なんとかしてくれる、と、信じて疑わないからです。
だから私達もまた、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な御言葉の乳を慕い求めるべきです。
『今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。』(1ペテロ2:2)
赤ちゃんのように主の御顔を慕い求め、そしてサタンに対しては、御言葉で完全武装した兵士となるのです。
今日も、神様が御顔を向け、シャロームを与えて下さるために、純粋な御言葉の乳を慕い求め、キリストのことばを心に豊かに住まわせる事に、最善を尽くしましょう。