メッセージ - 主と論じあおうという意欲ある人に救いを下さる主(詩篇85篇)
詩篇書講解説教
主と論じあおうという意欲ある人に救いを下さる主(詩篇85篇)
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「聖歌隊の指揮者によってうたわせたコラの子の歌」
この詩篇の状況は、バビロン捕囚から帰還して、それ程経っていない時期と考えられる。
イスラエルが、バビロンに捕囚された事は、確かに、身から出た錆であった。
彼らは御言葉に背き続け、預言者を通しての主からの警告も聞かずに、罪と欲の道を邁進した結果、バビロン捕囚という憂き目に遭ったのだ。
しかしその70年の後、主の恵みと憐れみの故に、彼らは再び祖国に帰る事ができた。
確かに、バビロンという「刑務所」から出所できた喜びはあるけれど、しかし、帰って来ても、住む家が残っていたわけではなく、礼拝する神殿が残っていたわけでもない。
それらは相変わらず崩壊したままで、これから、建て直さなくてはならない。
国は相変わらず荒廃したままで、強力な敵や、嘲る者がのさばっているままであった。
それで主に向かって回復を祈り求めているのが、この詩篇である。
私達ももし、生活が乏しいままでひもじい思いをしている、とするなら、この詩篇の祈りを自分自身に当てはめて、主に呼び求めるのだ。
詩篇85:1 主よ、あなたはみ国にめぐみを示し、ヤコブの繁栄を回復されました。
詩篇85:2 あなたはその民の不義をゆるし、彼らの罪をことごとくおおわれました。〔セラ
私達が神様に対して犯した罪は、到底、償いきれるものではない。
それで主は、罪の「赦し」と、罪を「覆うこと」を、私達のほうに提唱しに来られる。
イザヤ1:18 主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。
雪が大地を覆えば、どんなに地が汚い状態であったとしても、全部覆われて、一面、銀世界になる事ができる。
しかし、ただ単に覆われただけでは、もとの状態が変わるわけではない。
雪が溶けてしまえば、再び汚い大地が現れるだけである。
そこで、本質が変わる必要がある。
「たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる・・・。」
主は、根本的に変える事ができるお方である。
そうなるための条件は、18節にある通り、主と論じあう事。
自分の足で主を探し、主の元へと行って、主と論じあうのだ。
イザヤ1:19 もし、あなたがたが快く従うなら、地の良き物を食べることができる。
1:20 しかし、あなたがたが拒みそむくならば、つるぎで滅ぼされる」。これは主がその口で語られたことである。
主と論じあったなら、主のことばに、喜んで聞き従う。
そうするなら、具体的な、物理的な祝福が帰って来て、地の良き物を食べることができる。
しかし、主と論じ合う事を拒み、また、聞いても背いたままであるなら、剣が待っている事が書かれてある。
続く4-7節には、不安と混乱の中にある神の民に、主の憐れみが注がれるように、祈り求めている。
主に祈り求めるための根拠は、聖書の御言葉である。
主が約束された回復の御言葉を楯にして、祈り求めるのだ。
詩篇85:4 われらの救の神よ、われらを回復し、われらに対するあなたの憤りをおやめください。
詩篇85:5 あなたはとこしえにわれらを怒り、よろずよまで、あなたの怒りを延ばされるのですか。
詩篇85:6 あなたの民が、あなたによって喜びを得るため、われらを再び生かされないのですか。
主が生き返らせて下さる約束の預言は、エゼキエル書37章にもある。
エゼキエル37:3 彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。わたしは答えた、「主なる神よ、あなたはご存じです」。
37:4 彼はまたわたしに言われた、「これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。
37:5 主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。
主は、枯れた骨さえも生き返らせる事ができるお方。
しかし、主がそれを成して下さるかどうかは、エゼキエルが言った通り、「主こそご存知」なのである。
私達がするべきは、ただ、主の約束の御言葉を信じて、祈り求める事だ。
詩篇85:7 主よ、あなたのいつくしみ(ヘセド)をわれらに示し、あなたの救(イエシャー)をわれらに与えてください。
ここの「救い」はヘブライ語でイエシャー、イエス様の御名イエシュア(彼は救い)と親類である。
救いは、ただ一方的な恵みであり、それは、主イエス様から来る。
詩篇85:8 わたしは主なる神の語られることを聞きましょう。主はその民、その聖徒、ならびにその心を主に向ける者に、平和を語られるからです。
詩篇85:9 まことに、その救は神を恐れる者に近く、その栄光はわれらの国にとどまるでしょう。
この詩篇の作者は、「神の仰せを聞こう」と願っていた。(8節)
彼には、主に対する恐れと、主への敬いがあり、主と論じあおうという意欲がある。
主の「救い」は、このように主と関わり合おうと「心意気」のある人に対して近く、救いの御手を伸ばして下さる。
主は、人格ある御方である。
異邦人が、祈り文句を何度も繰り返すのは、彼らにとっての「神」が、人格があるとは思っておらず、ただ呪文的に、同じ言葉を念じれば、超能力のようにそれが成る、と思っているのだ。
しかし私達は、生きておられる主と論じ合い、語り合おうとする心意気を、主に見せるべきだ。
詩篇85:10 いつくしみ(ヘセド)と、まこと(エメット)とは共に会い、義(ツェデク)と平和(シャローム)とは互に口づけし、
詩篇85:11 まこと(エメット)は地からはえ、義(ツェデク)は天から見おろすでしょう。
ヘセドは「良いこと」「誠実」「いつくしみ」の意味があり、エメットには「真理」「確かさ」「信頼できること」の意味がある。
私達には元々、真理(エメット)は無い。
義(ツェデク)も無い。
ただ裁かれると滅びる以外に無い、罪ある存在であった。
しかしイエシュア、すなわち、その名が「救い」というイエス様が、罪ある私達の身代わりに、十字架にかかってくださり、ヘセド(いつくしみ)をほどこしてくださった。
それ故、私達はイエス様にあって義(ツェデク)とされ、神との和解(シャローム)がもたらされた。
ヘセド(恵み)とエメット(心理)を出会わせ、ツェデク(義)とシャローム(平和)を互いに口づけさせて下さったお方が、イエス・キリストである。
そして、イエス様を信じて、神様と和解する結果、地は、良いものが生じるようになる。
詩篇85:12 まことに、主は、良いものを下さるので、私たちの国は、その産物を生じます。
詩篇85:13 義は、主の御前に先立って行き、主の足跡を道とします。
御言葉であられる主は、生きておられ、人格ある御方である。
この主と積極的に論じ合い、語り合おうと心意気ある人、すなわち、「イエシュア(彼は救い)という名前のイエス」の名によって求める事こそが、救いと祝福の最短ルートなのだ。