メッセージ - 心のおもむくままに歩む虚しい人生と、御霊によって導かれる充実した人生(伝道者の書2:1-11)
心のおもむくままに歩む虚しい人生と、御霊によって導かれる充実した人生(伝道者の書2:1-11)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2021-11-9 11:55
心のおもむくままに歩む虚しい人生と、御霊によって導かれる充実した人生(伝道者の書2:1-11)
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『私は心の中で言った。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」しかし、これもまた、なんとむなしいことか。笑いか。ばからしいことだ。快楽か。それがいったい何になろう。』(伝道者の書2:1)
クリスチャンライフは、喜びに満ちて、充実しているはずなのに、どうしてこんな内容が、聖書の一巻に記されているのだろうか。
人は元々、まことの創造主に導かれて、創造主の意図どおりに進むために創られた者である。
だから、創造主抜きに生きるなら、すなわち、私達のいのちを創り、私達の人生に意味を付与して下さった神様から独立し、ただ、自分の心と欲望のおもむくまま、快楽や楽しみを追求して行くなら、「本質を生きていない」という虚しさに必ず覆われ、そのまま人生を終わるとするなら、ソロモンのように「なんとむなしいことか」という、「虚しさ」の実り以外、結ばない。
ソロモンは、前半人生は、素晴らしい信仰によって歩み、誰よりも知恵が与えられ、世界一高いIQも与えられた。
しかし、途中から多くの妻をめとり、しかも、多くの偶像礼拝する女性をめとった結果、彼は偶像礼拝もするようになり、女に願われるまま、偶像の神殿もいくつか造った。
その彼が行き着いた先が、これであった。
だから、世の哲学や思想が、知恵を集結して、行き着く先は、大体、この伝道者の書のような内容となり、その内容とは「全てはむなしい」「全ては空」「全ては虚無」なのである。
結局、肉欲のおもむくままに邁進する結果、自らを滅ぼし、また、周囲の人にも多大な迷惑をかけることになってしまう。
次に書かれてあるとおりである。
『肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。』(ガラテヤ5:19-21)
実際、神から離れて、肉の行いに邁進し、偶像礼拝や魔術、好色、酩酊、遊興に興じたソロモンが相続したのは、神の国ではなく、虚しさだった。
ソロモンが、事業や、何か物事をした動機は、以下であった。
『私は心の中で、私の心は知恵によって導かれているが、からだは「ぶどう酒(ヤイン:ワイン、うきうきさせるもの)」で「元気づけよう(マーシャク:引っ張りまわす、続ける、運転する)」と考えた。人の子が短い一生の間、天の下でする事について、何が良いかを見るまでは、愚かさを身につけていようと考えた。』(伝道者の書2:3)
みなさんの人生は、ぶどう酒に引きずり回されていないだろうか?
うきうきさせるものに、運転させられていないだろうか?
ソロモンは、自らそれに飛び込んでしまった結果、飲まれてしまったのだ。
心がどんなに知恵ふかくても、ぶどう酒や、うきうきさせるものには、勝てず、それに飲まれてしまうのだ。
彼は、心のおもむくままに、色々やった。
『私は事業を拡張し、邸宅を建て、ぶどう畑を設け、庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植えた。木の茂った森を潤すために池も造った。私は男女の奴隷を得た。私には家で生まれた奴隷があった。私には、私より先にエルサレムにいただれよりも多くの牛や羊もあった。
私はまた、銀や金、それに王たちや諸州の宝も集めた。私は男女の歌うたいをつくり、人の子らの快楽である多くのそばめを手に入れた。私は、私より先にエルサレムにいただれよりも偉大な者となった。しかも、私の知恵は私から離れなかった。私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。実に私の心はどんな労苦をも喜んだ。これが、私のすべての労苦による私の受ける分であった。
しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。』(伝道者の書2:4-11)
結局、神から離れた人が、心のおもむくままにするとするなら、たとえそれが、どんなに知恵深い人がやったとしても、全てはむなしく、益する所は一つもない。
ソロモンは、ぶどう酒に引き回され、運転させられる人生を送った結果、むなしくなった。
私達は、自分のおもむくままにではなく、御霊のおもむくままに引き回され、御霊によって運転させられるなら、神様が与えられた、意味ある人生、永遠の価値ある、充実した人生を生きられるのだ。
『兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。』(ガラテヤ5:13-17)
何かの事業をするにしても、自分の欲のおもむくままに、ではなく、御霊の赴くままに成し、豊かな御霊の実りを実らせ、充実した事業を成し、充実した人生を送る皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!