メッセージ - 主に聞かれる祈り(詩篇86篇)
詩篇講解説教
主に聞かれる祈り(詩篇86篇)
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ダビデの祈
86:1 主よ、あなたの耳を傾けて、わたしにお答えください。わたしは苦しみかつ乏しいからです。
詩篇86篇は、詩篇の第3巻のうち、唯一、「ダビデ」による詩篇である。
この詩篇は、日本語の「主」という表現が11回で、その内、アドナイ(主)が7回、神聖4文字のYHWH(新改訳での太文字の主)が4回。
また、「神」という表現は6回。(8節の神々は除く)
その回数を見るだけでも、彼がいかに、神なる主を呼び求めているかが分かる。
彼の呼び求め方は、主よ、主よ、と、「数撃ちゃ当たる」の祈りではない。
イエス様は言われた。
『わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。』(マタイ7:21)
ダビデは、父の御心を行ったゆえに、彼の祈りは、聞かれたのだ。
御心とは御言葉である。
その御言葉に、従順に従う人こそ、主はその祈りを聞かれる。
ダビデはこの祈りの中で、自分自身のことを、「あなたのしもべ」と呼んでいる。
彼は、神様との主従関係において、まことに正しい位置関係に自分を置いたゆえに、主は彼の祈りを聞かれたのだ。
この詩篇からは、彼の、神様に対する信頼と服従の気持が、強く示されている。
86:2 わたしのいのちをお守りください。わたしは神を敬う者だからです。あなたに信頼するあなたのしもべをお救いください。あなたはわたしの神です。
2節の「神を恐れる者(新改訳)」「神を敬う者(口語)」「holy(KJV)」と訳された原語は、「חָסִיד ハスィード」。
意味は、親切な、敬虔な、聖なる人、慈悲深い人であり、このハスィードは、5、13、15節の「ヘセド(חֵסֵד恵み)と関連がある。
神様の恵みは、神を恐れる人、親切な、敬虔な、聖なる人、慈悲深い人と、深く関連があるのだ。
86:3 主よ、わたしをあわれんでください。わたしはひねもすあなたに呼ばわります。
昼も夜も、いつも主を呼ばわる人に、主は近い。
町を歩く時、人を見た時、状況を見聞きした時、いつも「主よ」と呼ばわり、主に祈り求める人と。
86:4 あなたのしもべの魂を喜ばせてください。主よ、わが魂はあなたを仰ぎ望みます。
主の御心は、彼の愛される聖徒が、しかめっ面をしながら清貧を我慢する事ではなく、聖徒が「喜ぶ事」である。
主は、人を創られた時、真っ先にエデン(喜び)の園に置かれた。
パウロもまた、何度も「喜びなさい」と書いている。
主にあって満ち足りて喜ぶ事は、大いに結構である。
しかし、たとえ貧しい中にあったとしても、主にあって喜びがある事は、信仰者の特権である。
86:5 主よ、あなたは恵みふかく、寛容であって、あなたに呼ばわるすべての者に/いつくしみを豊かに施されます。
1-4節までは「主よ。**してください」と、願い求める祈りが続いたが、6節からは、「願い」の色合いから、「神はどういうお方であるか」というような、「信仰告白」と「宣言」の色合いに変わる。
主は、祈りに答えてくださるお方(7節)。
神々のうちで並ぶ者はなく、みわざに比ぶべきものは無いお方(8節)。
主が造られたすべての国々は、御前に来て伏し拝み、御名があがめられる(9節)。
主は大いなる方、奇しいわざを行なわれる方。ただ主だけ神(10節)。
そのように、ダビデは告白した。
私達も、主はいかなるお方であるのかを告白するなら、祈りに、確信させる力を帯びるようになってくる。
ただ「ください、ください、」の祈りは、味わいが無い祈りである。
この詩篇86篇のように、主はどういうお方であるのか、自分はどういう信仰を、主に持っているのか、という告白や、また、感謝や、御言葉の宣言や、賛美があるなら、味わい豊かな祈りとなる。
86:11<願い> 【主】よ。あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。
「私の心を一つにしてください」とは、自分の中から二心が取り除かれるように、という祈りであろう。
「二心の者」については、ヤコブ書に書かれてある。
ヤコブ4:8 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。
ヤコブ1:5 あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。
1:6 ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。
1:7 そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。
1:8 そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。
このような、不安定に揺れ動く「二心」の者ではなく、ただ主を確信した「一つ心」になれるように、私達も、ダビデのように祈るのだ。
86:12<表明> わが神、主よ。私は心を尽くしてあなたに感謝し、とこしえまでも、あなたの御名をあがめましょう。
86:13<告白> それは、あなたの恵みが私に対して大きく、あなたが私のたましいを、よみの深みから救い出してくださったからです。
12-13節には、ダビデの表明と告白がある。
自分は、心を尽くして主に感謝し、とこしえに御名をあがめます、と。
なぜなら主は、彼のたましいをよみの深みから救い出してくださったから。
14節は、逆らい立つ横暴な者について主に訴えている。
そのような者に対して、ののしったり、仕返しをしたりするなら、ただの喧嘩である。
しかし、その人を主に訴えるなら、それは祈りに変わり、その案件は主に移って、主がその者を取り扱ってくださる。
そして16-17節は、再び「願い」で閉じられる。
86:16 わたしをかえりみ、わたしをあわれみ(ハナン)、あなたのしもべにみ力を与え、あなたのはしための子をお救いください。
神様の恵み(ハナン)は、「神を恐れる人、親切な、敬虔な、聖なる人、慈悲深い人」、すなわち、ハスィードの人と、深く関連があった。
私達も、その資格ある者となる事を、目指すべきだ。
86:17 わたしに、あなたの「恵み(トーブ)」の「しるし(オート)」を/あらわしてください。そうすれば、わたしを憎む者どもは/わたしを見て恥じるでしょう。主よ、あなたはわたしを助け、わたしを慰められたからです。
「トーブ」には、パーフェクト、ビューティフル、グッドの意味がある。
「オート」は、よく「しるし」と訳されるが、信号、記号、マーク、標識などの意味である。
つまり、主からのパーフェクト、ビューティフル、グッドのマーク付け、お墨付きを、わたしに付与してください、そうすれば、敵は恥じ入ります、と祈っている。
ダビデは、いつでも、どんな時でも、主を呼び求め、主と自分自身の「主従関係」をはっきりさせ、主はいかなるお方であるのかを正しく告白し、これから主に対してどのように生きるのかを表明した。
私達も、そのように信仰において努力し、実行して行くなら、ダビデのように守られ、用いられ、主によって人々の上に高く上げら、時代に御国をもたらすために用いられるのだ。