メッセージ - 祝福の相続地を得る人の性質(エゼキエル47:13-23)
エゼキエル書講解説教
祝福の相続地を得る人の性質(エゼキエル47:13-23)
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エゼキエル書43章13節以降には、イスラエル12部族の新しい相続地が示されている。
エゼキエル47:13 主なる神は、こう言われる、「あなたがたがイスラエルの十二の部族に、嗣業として土地を分け与えるには、その境を次のように定めなければならない。ヨセフには二つの分を与えよ。
まず、相続地について、真っ先に宣言された事は、ヨセフには、二倍の領分が与えられた事だった。
二倍の相続地を得たヨセフは、柔和で、正直で、不正や悪を行う者に対して腹を立てず、主を信じ、日々、誠実を養った。
まさにイエス様が言われた、地を相続する人の性質である。(マタイ5:5)
ヨセフは、そのような性質だったから、父ヤコブに愛され、そして、神から愛された。
それで父ヤコブは、臨終の時、ヨセフに素晴らしい祝福を与えている。
創世記49:22 ヨセフは実を結ぶ若木、/泉のほとりの実を結ぶ若木。その枝は、かきねを越えるであろう。
創世記49:26 あなたの父の祝福は永遠の山の祝福にまさり、/永久の丘の賜物にまさる。これらの祝福はヨセフのかしらに帰し、/その兄弟たちの君たる者の頭の頂に帰する。
ヨセフは、父の祝福のとおり、垣根(境界)を超えた領土を得、他の兄弟にまさる祝福を得た。
ヨセフの偉大な点は、エジプトの宰相(総理大臣)になった事、ではない。
総理大臣という地位は、最終目標ではなく、手段に過ぎない。
最終目標とは、神の国を建て上げる事。
すなわち、70名ほどだったイスラエル一家が、一つの国家へと成長するために、彼らに肥沃な地・ゴシェンの地を備え、そこで、安心して大いに産んで増えて行くための「システムづくり」を、彼にさせるため、神様はヨセフを総理大臣にしたのだ。
エジプトの総理大臣という役職は、たまたま、与えられたに過ぎない。
ちり一つ拾うような奉仕さえ、イエスキリストのために為すなら、神の国の建てあげの尊い奉仕である事には変わりない。
ヨセフのように、尊い事に用いられる器もあれば、卑しい事に用いられてしまう器も、厳然として存在する。
自らをきよい器として整えるなら、尊い事に用いられ、汚れに任せたままなら、卑しい事に用いられてしまうのだ。
だから私達も、ヨセフの模範にならうべきである。
この地において、莫大な経済や地位を得る事が第一ではない。
神の国とその義が為される事を、まず第一に求め、日々、柔和と誠実を養うべきだ。
エゼキエル47:14 あなたがたはそれを等分に割り当てなければならない。それはわたしがかつてあなたがたの先祖に与えると誓ったものである。この地は相続地としてあなたがたのものである。
神はアブラハムに、この地を永遠に得させる、と、約束しておられた。
その実現を、主は、今回の幻で見せておられる。
続く節では、具体的に領地の境界が示されている。
エゼキエル47:15 その地の境界線は次のとおりである。北側は、大海からヘテロンの道を経て、ツェダデの入口に至り、
エゼキエル47:16 ハマテ、ベロタ、およびダマスコの領土とハマテの領土の間にあるシブライム、さらにハウランの領土に面したハツェル・ハティコンに至る。
エゼキエル47:17 海から始まる境界線はダマスコの境界のハツァル・エナンに至り、北は北のほうへ、ハマテの境界にまで至る。これが北側である。
エゼキエル47:18 東側は、ハウランとダマスコの間と、ギルアデとイスラエルの地の間のヨルダン川が、東の海を経てタマルに至るまでの境界線である。これが東側である。
エゼキエル47:19 南側は、タマルから南に向かってメリバテ・カデシュの水と川に至り、大海に至るまでである。これが南側である。
エゼキエル47:20 西側は、大海が境界となり、レボ・ハマテにまで至る。これが西側である。
エゼキエル47:21 あなたがたは、この地をイスラエルの部族ごとに割り当てなければならない。
これはおよそ、ダビデ・ソロモンの時代の領土に相当する。
相続地は、無条件に与えられるものではない。
その領域内で為すべきは、きよさに立って、神の国の法則に従って歩む事である。
もし、きよさに立たず、汚れた行いを続けているなら、かつて土地がイスラエルを吐き出したように、吐き出されてしまう。
この、新しく示された相続地では、意外な人々も相続が許可されている。
エゼキエル47:22 あなたがたと、あなたがたの間で子を生んだ、あなたがたの間の在留異国人とは、この地を自分たちの相続地として、くじで割り当てなければならない。あなたがたは彼らをイスラエル人のうちに生まれた者と同じように扱わなければならない。彼らはイスラエルの部族の中にあって、あなたがたといっしょに、くじで相続地の割り当てを受けなければならない。
エゼキエル47:23 在留異国人には、その在留している部族の中で、その相続地を与えなければならない。――神である主の御告げ。――
なんと、異邦人にも、領土が割り当てられるのだ。
それはモーセ五書では考えられない事で、新約的といえる。
しかし、この主が聖別された領域内で為すべきは、きよさに立って、神の国の法則に従って歩む事である。
エゼキエル書40章以降で、示されていた事は、人間のものさしで計る事ではなく、神が示された聖なるものさしではかる事、そして、聖なる立ち位置を堅固に守り(40章)、聖と俗とをしっかり区別し(42章)、主の聖にならって、聖なる者となり(43章)、礼拝を中心としたきよい生活を送る事(45-46章)だった。
そうするなら、生活の中央に位置する神殿から、いのちの水が川となって流れ出した。(47:1-12)
だから、相続地が与えられ住む事のできる異邦人とは、きよい信仰を持っている異邦人だけである。
実際、エゼキエルがこの幻が示された後の、エズラ・ネヘミヤの時代、その土地に住んでいた外国人達は、排斥された。
なぜなら、ネヘミヤ記を読めば分かるが、そこの外国人たちは、信仰を持った「きよい異邦人」でなくて、イスラエルの神を拝む、と口では言いつつも、実際に行った事といえば、神殿再建を邪魔し、不正や汚職をイスラエルの指導層に持ち込んで、イスラエルを悩ました事だった。
その、異邦人と混じり合って産まれた子どもたちは、ユダヤの言葉がわからなかった。(ネヘミヤ13:24)
ユダヤの言葉が分からない、という事は、律法が読めない、という事であり、早速その代から霊的な汚れが入り込んで、かつての、バビロン捕囚へと突き進んでしまった先祖の、二の舞になってしまう。
それを大いに憂いたエズラやネヘミヤは、痛みの改革を断行し、彼らを追い出した。
私達キリスト者は、イエス・キリストを信じる信仰によって、神の民に加えられた。
それに安住する事なく、神が聖であられるように、私達も、聖を保つべきである。