メッセージ - 諸行無常、色即是空を乗り超えて永遠に輝く神の民(詩篇90篇)
詩篇講解説教
諸行無常、色即是空を乗り超えて永遠に輝く神の民(詩篇90篇)
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詩篇90篇表題『神の人モーセの祈』
詩篇90篇より、詩篇の第四巻が始まる。
この詩篇第四巻(90‐106篇)は、おもに彷徨いと苦難について記されており、それはまさに、民数記の内容である。
その冒頭の詩篇が、荒野でのさまよいと苦難を最も経験した、モーセがしるした詩である。
90:1 主よ、あなたは世々われらのすみかで/いらせられる。
90:2 山がまだ生れず、あなたがまだ地と世界とを造られなかったとき、とこしえからとこしえまで、あなたは神でいらせられる。
モーセは真っ先に、主が、私達の「すみか(マーオーン)」でいらせられる、と宣言した。
マーオーンというヘブライ語の意味は、宿る所、住む所、逃げ込む所。
この詩篇90篇は、諸行無常的な、色即是空的な内容がフォーカスされがちではある。
しかし、モーセの最初の宣言、すなわち、永遠から永遠に生きておられる主が、わたしの住まいである、という信仰の宣言によって、虚しい色合いは、一気に、永遠の希望の色合いに変化する。
その変化を味わえるかどうか。
それは、一人ひとりが信じる、信仰の対象にかかっている。
90:3 あなたは人をちりに帰らせて言われます、「人の子よ、帰れ」と。
90:4 あなたの目の前には千年も/過ぎ去ればきのうのごとく、夜の間のひと時のようです。
帰る先が、単に「ちり」であるとするなら、確かに、全てのものが虚しい、諸行無常の響きに聞こえる。
しかし聖書を読むなら、主が言われた「帰れ」の先は、「ちり」よりも遥かに栄光ある「先」である事が分かる。
90:5 あなたは人を大水のように流れ去らせられます。彼らはひと夜の夢のごとく、あしたにもえでる青草のようです。
90:6 あしたにもえでて、栄えるが、夕べには、しおれて枯れるのです。
ここの「ひと夜の夢(シェナー:眠る)」とは、死を意味しており、人が、朝には咲いても、夕べにはしおれる花のように、たとえられている。
そこで終わるなら、色即是空の世界観であるが、しかし、「眠り(シェナー)」と表現されているからには、「目覚め」の希望もあるという事だ。
確かに人は、罪を犯したゆえに、その報いとして、ちりに帰る存在となってしまった。
しかし、人は、ちりに帰って終わりではない。
肉体がちりに帰ると共に、その霊は、永遠なる神の元に帰るのだ。
その永遠の先を、楽園、すなわちパラダイスで生きる人がいる。
それは、神と和解し、神の救いを得た人である。
新約時代の今、その人達とは、「彼は救い」という名の救い主・イエス様を信じた人達であり、その人達こそ、永遠の楽園(パラダイス)で、神とともに生きる人達だ。
イエス様は、人の罪の身代わりとして十字架にかかり、ひとたび「眠った」。
しかし、三日目に「目覚め」、復活し、死を打ち破って、こうして、死の呪いの下にある全ての人々の救い主となられた。
彼を信じる人は、神と和解が成立し、もはや、単に「ちり」に帰る存在ではなくなり、神の子という特権を得て、栄光の栄光に満ちた天国で、まことの花婿イエス・キリストと共に、永遠に喜び楽しむ者となるのである。
それが、福音である。
90:7 われらはあなたの怒りによって消えうせ、あなたの憤りによって滅び去るのです。
90:8 あなたはわれらの不義をみ前におき、われらの隠れた罪をみ顔の光のなかにおかれました。
90:9 われらのすべての日は、あなたの怒りによって過ぎ去り、われらの年の尽きるのは、ひと息のようです。
確かに、モーセの時代、イスラエルの民は、神の「怒り」「憤り」を引き起こした。
そしてモーセは、そのような彼らが、荒れ野で次々と死んでいくのを見た。
主の御怒りの前で、人の年が尽きるのは、ひと息のようである、と、モーセは表現した。
しかしその一方で、荒野で死ぬことなく、約束の地に到達した人々もいた。
ヨシュアとカレブである。
主の御怒りを引き起こして死ぬ人と、生きながらえて御国を相続する人の違いは、一体何だろう。
神の怒りを引き起こして、荒野で滅んだ人々は、神様の言葉を信じず、従わなかった人々である。
ひるがえって、約束の地に到達した人々は、神様の言葉を信じて、従った人々であった。
神様の言葉に従わない人は、9節にある通り、主の激しい怒りの中に沈み行き、自分の年を、ひと息のように終わらせてしまう人生である。
しかし、主の御言葉を握りしめ、聞き従った人々は、約束の地に入り、すばらしい相続地を得た。
カレブなどは、85歳であったにもかかわらず、日常の出入りや、戦争にも耐えるほどに、健康体で、誰もが恐れる強者が住んでいたヘブロンを奪還し、その土地に、彼の子々孫々を住まわせた。
主に信頼する者は、鷲のように若々しく力が与えられ、翼をかって登って行くのである。
90:10 われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。
この人生を、単に、労苦とわざわいに満ちた、80年ほどでちりに帰ってしまう人生にしてしまうか。
それとも、カレブのように充実した栄光の人生にするか。
それは、主を正しく知り、正しく「主の時」をわきまえるかどうかにかかっている。
90:11 だれがあなたの怒りの力を知るでしょうか。だれがあなたをおそれる恐れにしたがって/あなたの憤りを知るでしょうか。
90:12 われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください。
モーセは、自分の日を正しく数える事を教えて下さい、知恵の心を得させて下さい、と祈り求めた。
私達は、主の御怒りの恐ろしさを、聖書から正しく知るべきであるが、それ以上に、主が下さる莫大な祝福、莫大なしあわせをこそ、求め、知るべきである。
主の莫大な祝福を得る鍵は、主の御声に聞き従い、その言葉を守り行る事。
この、実にシンプルな事であった。
モーセは12節で、自分の日を正しく数える事ができるように、と、求めたが、私達も、自分の人生の日々を、いかに主にあって正しく生きるかを、求めるべきである。
人は何かと、自分の人生がこれからもずっと、変わらず続いていくもの、と思いこんでいるが、人生を80年として、自分の年齢を引き算し、日数を計算するなら、自分の日数は、意外と少ない事がわかる。
しかも、80歳まで生きられる、などと、誰も分からないどころか、そのわずかな日々は、10節にある通り、ほねおりと悩みに満ちている予感しかない人が多い。
だから私達は、「きょう」と呼ばれる日に、主の御声に聞き従い、主の嫌われる事を止めるべきなのだ。
90:13 主よ、み心を変えてください。いつまでお怒りになるのですか。あなたのしもべをあわれんでください。
90:14 あしたに、あなたのいつくしみをもって/われらを飽き足らせ、世を終るまで喜び楽しませてください。
90:15 あなたがわれらを苦しめられた多くの日と、われらが災にあった多くの年とに比べて、われらを楽しませてください。
13節以降、モーセは主に祈っている。
いつまでお怒りになられるのですか、あわれんで下さい、人生の日々を恵みで満ち足らせ、喜び歌い、楽しむようにしてください、と。
今までの人生、悩んで来たかもしれない。
災いに遭ってきたかもしれない。
それは、正しく主に祈り求めなかった日々だけで、もう十分である。
モーセのように、祈り求めるべきである。
90:16 あなたのみわざを、あなたのしもべらに、あなたの栄光を、その子らにあらわしてください。
90:17 われらの神、主の恵みを、われらの上にくだし、われらの手のわざを、われらの上に/栄えさせてください。われらの手のわざを栄えさせてください。
モーセは最後に、われらの手のわざを栄えさせてください、と、繰り返し祈っている。
手応えのない日々を何十年も送り、手のわざが何も残らないままちりに帰って、やがて存在していた事すらも忘れ去られてしまう、そのような人生が、耐えられないのだろう。
しかし、私達の存在を確かなものとし、永遠のものとして下さるお方は、主である。
そして、永遠なる主のために捧げた事だけが、永遠の記念として残るのである。(マタイ26:13)
モーセは、いのちが取られる直前に、イスラエル12部族を祝福した後、いよいよ最後に言った言葉が、以下である。
申命記33:26 「エシュルンよ、神に並ぶ者はほかにない。あなたを助けるために天に乗り、/威光をもって空を通られる。
33:27 とこしえにいます神はあなたのすみかであり、/下には永遠の腕がある。敵をあなたの前から追い払って、/『滅ぼせ』と言われた。
33:28 イスラエルは安らかに住み、/ヤコブの泉は穀物とぶどう酒の地に、/ひとりいるであろう。また天は露をくだすであろう。
33:29 イスラエルよ、あなたはしあわせである。だれがあなたのように、/主に救われた民があるであろうか。主はあなたを助ける盾、/あなたの威光のつるぎ、/あなたの敵はあなたにへつらい服し、/あなたは彼らの高き所を踏み進むであろう」。
モーセは、イスラエルに「エシュルンよ」、と呼びかけている。
エシュルンは「まっすぐにする」「正しく考える」という意味である。
神の民の本来は、まっすぐな神の言葉どおりに歩むものであり、神をすみかとするものであり、その力強い神の御腕の下で敵から守られ、安らかに住み、地の豊かな産物を喜び楽しむ、誰にも比べうるものの無い、しあわせな民族のはずである。
私達は、神の民として、まっすぐな神の言葉に歩み、祝福としあわせの人生を全うし、この肉体はちりに帰ったとしても、霊は永遠の天国で、永遠のしあわせを神とともに生きる者たちである。
結局、まことの神を知らず、求めず、神ぬきで生きる人間、すなわち、80年ほどでちりに帰る人間が、やっと到達できる叡智が「諸行無常」「色即是空」「全ては虚しい」、のたぐい以外には無い。
しかし、永遠なる主とともにあゆむ人は、その向こう側に行く事ができる。
すなわち、永遠の喜びに溢れたいのちを、まことの花婿・イエス・キリストと共に、永遠に楽しむのである。
モーセは、この詩を残し、約束の地に足を踏み入れる事なく、ちりに還ったが、それで終わりではなかった。
新約を見ると、モーセがちゃっかりと、イエス様と共に約束の地の「こちら側」にいて、神様の栄光の内に、永遠のいのちを生きていた事が分かる。(マタイ17:3)
イエス様にある信仰者には、永遠の栄光と喜びがある事を、決して忘れてはならないのだ。