メッセージ - 安息日を大切にする人への祝福(詩篇92篇)
詩篇講解説教
安息日を大切にする人への祝福(詩篇92篇)
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表題には、安息日のための歌、と、書いてある。
主は、安息日を特別扱いしなさい、と、十戒で定められた。
なぜなら安息日は、主の創造のみわざが完成し、主がその日に休んで安息した日であるからである。
ユダヤ人は、安息日を中心に1週間を過ごしている。
なぜなら、主が命じられた事は、六日間は働いて仕事にいそしみ、第七日目は、主の安息をおぼえて、どんな仕事もしてはならない、と、十戒において命じられたからだ。
主は、六日間働いて、全てのものを造り、七日目に、休まれたからだ。
安息日にするべき事が、1-2節において、3つの動詞で、示されている。
92:1 いと高き者よ、主に感謝し、み名をほめたたえるのは、よいことです。
92:2 あしたに、あなたのいつくしみをあらわし、夜な夜な、あなたのまことをあらわすために、
92:3 十弦の楽器と立琴を用い、琴のたえなる調べを用いるのは、よいことです。
3つの動詞とは、
1,感謝する(ヤーダー)
元々は「手を使う」事で、投げる、弓を放つ、といった意味となった。
主に向かって投げるべきは、感謝であり、賛美であり、私達自身の冠である。
2,歌う(ザーマル)
ザーマルの意味は、「歌う」の他、賛美する、楽器を奏でる事の意味である。
表題の「歌(ミズモール)」は、ザーマルの名詞形である。
3節では、色々な楽器を用いて主に賛美を捧げる事は、良いことだ、と書いてある。
だから礼拝では、極力、色々な楽器を用いて賛美を捧げた方が良い。
3,あらわす(ナーガド)
意味は、告げる、知らせる、教える、言い表す、を意味する。
すなわち、口でもって、表明するのだ。
何を表明するのか。それは、主の恵み、主の真実を、である。(2節)
それらは、良いこと(トーブ)である。
トーブとは、パーフェクト、ビューティフル、グッドである。
主を覚え、主を安息するべき日に、主に感謝し、賛美を捧げ、また信仰を口で表明する事こそ、パーフェクト、ビューティフル、グッドなのだ。
92:4 主よ、あなたはみわざをもって/わたしを楽しませられました。わたしはあなたのみ手のわざを喜び歌います。
この詩篇の作者は、主のみわざを喜んでいる。
全て、神の民は、主がなさった創造のすばらしいわざと、その完成を喜ぶものであるが、同時に、主の聖徒一人一人は、おのおのの人生に主が降りて来て下さった事、主が不完全で欠けた私達を、癒し、不当な虐げを強いてきた敵を裁き、満ちたらせ、やがては完全なものとさせて下さる事を、喜ぶものである。
92:5 主よ、あなたのみわざは/いかに大いなることでしょう。あなたのもろもろの思いは、いとも深く、
92:6 鈍い者は知ることができず、愚かな者はこれを悟ることができません。
「鈍い者(バアル)」は、元々は「食べ物」を意味するが、そこから、家畜のような愚かさ・残忍さなど、聖なる性質の一切無い、肉欲の現れである。
「愚かな者(ケシール)」は、太ったもの、鈍い者の意味である。
すなわち、世の楽しみや諸々の心配事によって、心の脂肪がついて、霊的感性が鈍感になってしまった人、また、家畜のように食べ物や残忍さしか求めない、肉欲だけで生きているような人は、主が大いなるみわざを行った事に対して、何の感動も、感謝もない。
彼らは、主に対する期待も、邪悪な者に対するさばきも、一切関心が無い。
私達の中から、そのような「鈍さ(バアル)」や「愚かさ(ケシール)」は、イエス様の名前によって踏みつけ、取り除くべきだ。
92:7 たとい、悪しき者は草のようにもえいで、不義を行う者はことごとく栄えても、彼らはとこしえに滅びに定められているのです。
92:8 しかし、主よ、あなたはとこしえに/高き所にいらせられます。
92:9 主よ、あなたの敵、あなたの敵は滅び、不義を行う者はことごとく散らされるでしょう。
7節を見ると、悪人がもうじき滅びる前兆とは、悪人が「繁栄している事」である事が分かる。
エステル記や詩篇73篇も、そのパターンであった。
だから悪人がはびこっているのを見た時、私達は、その先が短い事を知り、エステルのように見を慎んで祈り、詩篇73篇のアサフのように、主の聖所に入って祈るのである。
そうするなら、次の事が起きる。
92:10 しかし、あなたはわたしの角を/野牛の角のように高くあげ、新しい油をわたしに注がれました。
92:11 わたしの目はわが敵の没落を見、わたしの耳はわたしを攻める悪者どもの/破滅を聞きました。
92:12 正しい者はなつめやしの木のように栄え、レバノンの香柏のように育ちます。
主は、礼拝すべき日には礼拝を遵守し、主の御業に思いを馳せて信頼する者を、このように守り、高く引き上げて下さる。
さらに、
92:13 彼らは主の家に植えられ、われらの神の大庭に栄えます。
主の家に植えられる、とは、主の目が常に注がれた特別な地に移し変えられ、特別保護の中で栄えるのである。
92:14 彼らは年老いてなお実を結び、いつも生気に満ち、青々として、
92:15 主の正しいことを示すでしょう。主はわが岩です。主には少しの不義もありません。
年老いてもなお実を結び、生気に満ちている、とは、誰もが望む所である。
実際、アブラハムも、モーセも、カレブも、年老いてなおそのようだった。
私達も、安息日を覚えてこれを聖とし、主を大切に覚え、礼拝から離れないなら、そのような尊厳に満ちた生涯を送る事ができるのだ。