メッセージ - 主に正しいさばきを求めるべき神の民(詩篇94篇)
詩篇講解説教
主に正しいさばきを求めるべき神の民(詩篇94篇)
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94:1 あだを報いられる神、主よ、あだを報いられる神よ、光を放ってください。
この詩篇は、「あだを報いられる神」という、主への呼びかけの反復によって始まる。
悪がまかり通っていて、その者たちがして来た悪に対しては何の報いも受けないまま、のさばっている現実に対して、主に「復讐の神」として現れて下さる事を求めている。
復讐、というと、抵抗を感じるクリスチャンは多いかもしれない。
しかし、クリスチャンは、無抵抗主義であるべきではない。
ただし、復讐は、私達が遂行するものではなく、主がしてくださるものである。
私達がすべきは、義をもってさばいてくださる主に、願い求める事だ。
ローマ12:19 愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
イエス様が言われた「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」という言葉は、無抵抗であれ、という意味ではない。
イエス様はその言葉の前に、「悪い者に手向かってはいけません」と、言われている。
すなわち、右の頬を打たれた時、左の頬を差し出す事よって、相手は「悪い者」であると認定し、そして、自分は悪い者をさばく事を自分ではせず、主のさばきにすべて委ねるものである、と、態度で表明するのだ。
だからもし、兄弟姉妹と言われている身内の中で、暴力を平気で行うような性質が芽生えているなら、左の頬を差し出している場合ではない。
神のさばきがその兄弟姉妹に及ばないよう、きっちりと戒めるべきなのだ。
94:2 地をさばかれる者よ、立って/高ぶる者にその受くべき罰をお与えください。
94:3 主よ、悪しき者はいつまで、悪しき者はいつまで勝ち誇るでしょうか。
悪者どもはレシャーイーム、1:1の「悪者」と同語である。
そこを見ると、悪を行う者たちは、風が吹き飛ばすもみがらのように散らされ、それに引き換え、主のおしえを喜びとし、昼も夜も御言葉をくちずさむ人は、水路のそばに植えられた木のように栄えて、廃れる事は無く、何をしても栄える、という法則が書かれてある。
4節以降に、この悪者どもは、何をして来たのか、どういう性質であるのかが、具体的に列挙されている。
94:4 彼らは高慢な言葉を吐き散らし、すべて不義を行う者はみずから高ぶります。
つまり彼らは、悪い事をするのに、一切の躊躇が無い、どころか、悪びれもせず、その悪をしている事をむしろ自慢するのである。
94:5 主よ、彼らはあなたの民を打ち砕き、あなたの嗣業を苦しめます。
彼ら神の民を打ち砕き、主の嗣業(ナハラー:相続)の内に生きる人を、狙い撃ちにして来る。
94:6 彼らはやもめと旅びとのいのちをうばい、みなしごを殺します。
94:7 彼らは言います、「主は見ない、ヤコブの神は悟らない」と。
彼らは、ヤコブの神、と言っている。
つまり、まことの神について、キリスト教について、ある程度知っていながらにして、まことの神をあざけり、その民に対して暴挙をしている、確信犯である。
そのような者の、反キリスト敵な言動は、放置してはならない。
放置するなら、その者の悪事に同意している事になってしまう。
私達は、それに対して、「神の御言葉はこうである」、と宣言するべきであり、本人を前にそれを言う勇気や立場が無いとするなら、この詩篇の作者のように、主に義のさばきを訴え、主の報復が成る事を祈り求めるべきである。
94:8 民のうちの鈍き者よ、悟れ。愚かな者よ、いつ賢くなるだろうか。
「鈍き(バーアル)」は、元は、火が燃え上がる、食い尽くす事の意味で、「愚か者(ケセイル)」は、元は「太った」「脂肪づいた」という意味である事から、「鈍い」「おろか者」、という意味となる。
つまり彼らは、火が燃え上がるような貪り食い尽くすような者で、なおかつ、心に分厚い脂肪がついたかのような、良心が鈍い者である。
彼らの貪りの行いによって、悲鳴を上げている人々を、彼らが見ても、聞いても、そんな事を何とも思わない者たちだ。
そのような者に対しては、「気づけ」「悟れ」と言う。
そう、気づかせるべきである。
何を気づかせ、悟らせるべきか。
それは、すべて正しいさばきをされる、全能の神について、である。
94:9 耳を植えた者は聞くことをしないだろうか、目を造った者は見ることをしないだろうか。
94:10 もろもろの国民を懲らす者は/罰することをしないだろうか、人を教える者は知識をもたないだろうか。
94:11 主は人の思いの、むなしいことを知られる。
ここで彼は、宣言している。
神は人をつくられ、そのはかりごとを、心の隠れた隅々まで知っておられる、という事を。
そして、主は、全世界のさばき主であられる、という事を。
クリスチャンは、罵詈雑言は言うべきではないが、黙っているべきではない。
もし黙っているなら、何も動かない。
主は、いかなるお方であるのかを彼らに宣言するべきであり、そして、神に訴えるべきなのだ。
そうするなら、物事が動き出す。
どう動き出すかが、12節以降に記されている。
94:12 主よ、あなたによって懲らされる人、あなたのおきてを教えられる人はさいわいです。
94:13 あなたはその人を災の日からのがれさせ、悪しき者のために穴が掘られるまで/その人に平安を与えられます。
12節に、私達のするべき分が書かれてある。
すなわち、主のおきてによって教えられ、時には主から懲らされ、そうして、主の道を歩む事である。
そうするなら、13節にあるとおり、災いから逃れさせ、平安が与えられ、かつ、その間には悪者のために穴が掘られるのである。
94:14 主はその民を捨てず、その嗣業を見捨てられないからです。
94:15 さばきは正義に帰り、すべて心の正しい者はそれに従うでしょう。
「さばきは正義に帰り」とはどういう事か。
主は、この世を、義によって固く建てられた。
世は、形状記憶合金のように、義へと戻るように造られているのである。
だから、いかに悪者がさばきを曲げ、法律を変えようとも、結局は義へと帰るようにできているのである。
94:16 だれがわたしのために立ちあがって、悪しき者を責めるだろうか。だれがわたしのために立って、不義を行う者を責めるだろうか。
94:17 もしも主がわたしを助けられなかったならば、わが魂はとくに音なき所に住んだであろう。
もしも、と、仮定法が使われている、という事は、結局最後は、主が助けとなって下さり、たましいは救いを得、さいわいを得た、という事である。
94:18 しかし「わたしの足がすべる」と思ったとき、主よ、あなたのいつくしみは/わたしをささえられました。
94:19 わたしのうちに思い煩いの満ちるとき、あなたの慰めはわが魂を喜ばせます。
彼は祈り、そして宣言した。
「足がすべる」と思った時、主のいつくしみが支えて下さった、と。
ここの「支える」は未完了形で、すなわち、今まで支えて下さった、のみならず、これからもずっと支え続けてくださる、という告白である。
また、思い煩いが満ちる時、主の慰めが、魂を「喜ばせ(シャァアー)」た、と告白しているが、シャァアーは、かわいがる、あやす事の意味があり、これも、ここでは未完了形である。
つまり、思い煩いが満ちて主に求めるなら、その都度、主はあやして下さり、かわいがってくださる、今までそうだったし、これからもずっとそうである、という告白である。
94:20 定めをもって危害をたくらむ悪しき支配者は/あなたと親しむことができるでしょうか。
94:21 彼らは相結んで正しい人の魂を責め、罪のない者に死を宣告します。
「定めをもって危害をたくらむ悪しき支配者」は、法律を自分に都合がいいように改定する、悪どい者である。
しかも、「彼らは相結んで正しい人の魂を責め、罪のない者に死を宣告」する。
そのような者に対し、主は、決して親しむ事はなさらない。
94:22 しかし主はわが高きやぐらとなり、わが神はわが避け所の岩となられました。
94:23 主は彼らの不義を彼らに報い、彼らをその悪のゆえに滅ぼされます。われらの神、主は彼らを滅ぼされます。
この詩篇は、主こそ自分にとっての守りであり、そして主は、彼らの不義は彼らに報い、彼らをその悪のゆえに滅ぼされる、という宣言で、終える。
この詩篇は、「あだを報いられる神」という呼びかけの反復で始まり、最後は「主は彼らを滅ぼされる」という宣言の反復で終わった。
こうして、この事はたしかに成就する、と、印が押された。
私達も、世においてまかり通っている悪を見たなら、この詩篇のとおりに、主に義のさばきを願い求め、また、主の復讐の日を宣言するべきだ。