メッセージ - 全て造られた者に、主をほめたたえさせるべき使命を持った私達(詩篇96篇)
全て造られた者に、主をほめたたえさせるべき使命を持った私達(詩篇96篇)
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- 執筆 :
- pastor 2022-2-15 8:00
詩篇講解説教
全て造られた者に、主をほめたたえさせるべき使命を持った私達(詩篇96篇)
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詩篇96:1 新しい歌を主にむかってうたえ。全地よ、主にむかってうたえ。
最初に反復されている言葉は「主にむかってうたえ(シールゥアドナイ)」、ヘブライ語の朗読を聞くと、1-2節にかけて「シールゥアドナイ(主に歌え)」が3回、テンポよく続いている。
詩篇95-100篇は、そのようなテンポの良い反復が続いて、賛美の歌詞としてとても適している事が分かる。
この詩篇の作者は、誰に向かって「主にうたえ」と言っているか。
それは、「全地(コール・ハ・エレツ:地の上にある者の全て)」を相手取って、命令形で、命じている。
一体、この作者は、何さまなのだろうか?
それは「人間さま」である。
主は元々、人間に、全地を支配し、治めるべき役割と責任を与えられた。(創世記1:28)
人は、全地を「主にあって」、正しく治めるべきである。
その「正しく治める」とは、全地も人も、こぞって創造主であられる主をほめたたえさせる方向性で、である。
残念ながら今、自然界は、人の好き勝手に、それぞれの自己中心的な欲望の赴くままに、搾取し、破壊しているため、被造物は、うめいている。
ローマ8:19 被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。
8:20 なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、
8:21 かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。
私達は、任されている被造物を、主に栄光を捧げる方向性にて治め、全地が主に向かって喜び賛美できるよう、正しく管理し、治めるべきなのだ。
詩篇96:2 主にむかって歌い、そのみ名をほめよ。日ごとにその救を宣べ伝えよ。
詩篇96:3 もろもろの国の中にその栄光をあらわし、もろもろの民の中にそのくすしきみわざをあらわせ。
私達が、被造物に対して、最もなすべき事は、この2-3節で示されている通り、主を宣べ伝える事である。
イエス様は昇天される前、私達に命じられた。
マルコ16:15 「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。
福音を宣べ伝えるべき相手は、人間には限らず、「すべての造られた者」である事に、注目すべきである。
私達は、被造物に対しても、主が救い主となられたという「福音」を宣言し、呪いを解いてやることもまた、使命なのだ。
なお、2節の「宣べ伝えよ」はバーサル、喜びに満ちた、明るいニュースを告げる事であり、3節の「あらわし」はサーファル、集計や記録として印をつける事が元の意味で、すなわち、一つももらさず正確に伝える事を意味する。
だから、主の栄光を伝える際には、
1,喜びに満ちた表情で明るい救いのニュースを伝える
2,御言葉は、一つも漏らさず、正しく伝える
という、二本立てが必要であり、そのどちらも欠かしてはならない。
イエス様は、福音を告げるべき命令を、私達人間に託された。
1コリント1:21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
十字架の福音という宣教のことばは、愚かに聞こえるかもしれない。
死者の復活や、永遠のいのちなど、世の人が聞くなら、信じられない、と言うかもしれないが、しかし私達の分は、喜びつつ、そして、一つも漏らさず、正しく伝える事であって、伝えた福音を受け入れるか、受け入れないかは、私達の責任ではなく、相手の責任である。
詩篇96:4 主は大いなる神であって、いともほめたたうべきもの、もろもろの神にまさって恐るべき者である。
詩篇96:5 もろもろの民のすべての神はむなしい。しかし主はもろもろの天を造られた。
ここで反復されている語は「もろもろの神(エロヒーム)」であるが、それは、異邦の神々の事である。
それらの神々は、天地を創造された主と比較するなら、むなしい。
そもそも、天地を創造された主を置いて、ほかに神々はいないのだが、主は、地の人々が「神々」と呼んでいるものに比較して、抜きん出て力があり、栄光に満ちたお方である。
詩篇96:6 誉と、威厳とはそのみ前にあり、力と、うるわしさとはその聖所にある。
主の栄光は全地に満ちており、至る所が、主の御前である。
私達はその「御前」において、どのような態度であるべきか。
7節以降に書かれてある。
詩篇96:7 もろもろの民のやからよ、主に帰せよ、栄光と力とを主に帰せよ。
詩篇96:8 そのみ名にふさわしい栄光を主に帰せよ。供え物を携えてその大庭にきたれ。
7-8節では「主に帰せよ(ハヴゥ・アドナイ:主に与えよ)」が、3回反復されている。
私達の分は、主に与える事、捧げる事であり、捧げるものは栄光と力である。
特に、「栄光(カーボード)」を捧げよ、と、2回繰り返されている。
カーボードは元々「重い」という意味である。
すなわち、主に栄光を捧げる、とは、主を重んじる心を捧げる、という事である。
8節後半から9節は、礼拝という場において持つべきこころざしが記されている。
詩篇96:8b 供え物を携えてその大庭にきたれ。
詩篇96:9 聖なる装いをして主を拝め、全地よ、そのみ前におののけ。
つまり私達は、手ぶらで主の庭に入ってはならない。
出エジプト記34:20にも、何も持たずに、わたしの前に出てはならない、と書いてある。
だから、主の前に出る時には、
1,手ぶらではなく捧げものをたずさえて
2,聖なる装いをして
進み出るべきなのだ。
だから礼拝に出る時、身を清めもせず、寝起きのままのような適当な格好で、手ぶらで出る事は、主を軽んじる事なのだ。
詩篇96:10 もろもろの国民の中に言え、「主は王となられた。世界は堅く立って、動かされることはない。主は公平をもってもろもろの民をさばかれる」と。
詩篇96:11 天は喜び、地は楽しみ、海とその中に満ちるものとは鳴りどよめき、
天や地に、海に対し、喜べ、と命じている。
私達は天に向って、台風は来るな、とか、明日は雨が降るな、といった祈りをよくするかもしれないが、むしろ、「喜べ」と命じたほうが良い。
詩篇96:12 田畑とその中のすべての物は大いに喜べ。そのとき、林のもろもろの木も/主のみ前に喜び歌うであろう。
植物に対しては、主の前で栄光の花を咲かせ、喜びつつ豊かな実りを主の前で実らせよ、と、命じるのだ。
実際、植木や生花に対して、人が、祝福の言葉をかけてやると、その木は豊かな実りを実らせ、花は長生きする。
逆に、呪いの言葉をかけ続けるなら、すぐに枯れてしまう。
私達は、被造物に対し、積極的に祝福のことばをかけてやるべきである。
詩篇96:13 主は来られる、地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、まことをもってもろもろの民をさばかれる。
13節は「来る(ボー)」と、さばく(者ファット)が繰り返されている。
主が来られる事と、主のさばきは、主を待ち望んでいる神の民には、慰めであるが、悪者にとっては、それはおそろしい日である。
だからこそ、福音を伝えるべきである。
そして被造物に対し、積極的に祝福のことばをかけ、全て主に創造された者たちが、主に栄光をささげるようにしてやるべきなのだ。