メッセージ - 主にあって喜び楽しむ神の民(詩篇97篇)
篇講解説教
主にあって喜び楽しむ神の民(詩篇97篇)
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詩篇97篇は、70人訳聖書の表題には「ダビデのために。彼の地が安定した時に」とある。
バビロン捕囚から帰還した時代背景も考えられるが、この詩篇は、神の国が到来した時にも当てはまり、また、主の再臨の時にも当てはまる内容である。
詩篇97:1 主は王となられた。地は楽しみ、海に沿った多くの国々は喜べ。
「王となられた」は、マーラフという動詞「王となる・王として統治する」の、完了形である。
地や島々に対し、楽しみ、喜べ、と命令できる根拠は、義によって統治される主が、王となられ、その統治が及ぶようになったからだ。
この詩篇で反復されているキーワードは、この「楽しみ」(1,8節)、「喜べ」(1,8,12節)である。
「楽しむ」(ギール)は元々、くるくる回る事の意味で、「喜ぶ」(サーマフ)は、顔がパーッと輝く様をあらわしている。
雅歌書のおとめも、このギールとサーマフの「二本立て」で喜んだ。
雅歌1:4 あなたのあとについて、行かせてください。わたしたちは急いでまいりましょう。王はわたしをそのへやに連れて行かれた。わたしたちは、あなたによって喜び(ギール)楽しみ(サーマフ)、ぶどう酒にまさって、あなたの愛をほめたたえます。おとめたちは真心をもってあなたを愛します。
「あなたによって喜び(ギール)楽しみ(サーマフ)。。。」
これはちょうど、子犬が、大好きな主人を前に喜んで、ぴょんぴょん飛び跳ねたり、くるくる回りながら、しきりに鳴くような感じである。
花嫁が王の元に嫁ぎ、王が彼女を彼の部屋へとエスコートした時、彼女はそのような喜びを喜んだ。
私達キリスト者も、花婿であられるイエス様が来られて、彼にエスコートされて御国へと入る時、そのような喜びが沸き起こるが、今、もし私達が、イエス・キリストを自分の王としているなら、その喜びはまさに今、味わう事ができるのだ。
主が王になられる事は、まさに、「神の国」の到来である。
神の国(ギ:バシレイア)とは、神の「支配領域」の事だからだ。
ルカ17:20 神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
17:21 また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
つまり、私達が神の統治に服しているなら、私達の人生が「神の国」の人生であり、また、クリスチャン事業家が、職場を神の統治下に置いているなら、その職場が神の国である。
そして、神の国が私達のただ中にあるなら、私達も主にある「楽しみ(サーマフ)喜ぶ(ギール)」分がある。
詩篇97:2 雲と暗やみとはそのまわりにあり、義と正とはそのみくらの基である。
詩篇97:3 火はそのみ前に行き、そのまわりのあだを焼きつくす。
3節の「あだ(ツァル)」は、元々は「狭い所」の意味で、そこから、敵、苦悩の意味となった。
主の「御顔の前の火(直訳)」火は、主の「義と正」の反対を攻勢して来るサタンにとっては、恐ろい火であるが、主とともに歩んでいる私達・主の民にとっては、慰めの火である。
その火が、私達の人生を狭くしている諸々の苦悩や、それをもたらすサタンを、焼き尽くして下さるからだ。
だから私達は、主と共に歩むべきである。
4節以降で、主の力と栄光が強調されている。
詩篇97:4 主のいなずまは世界を照し、地は見ておののく。
詩篇97:5 もろもろの山は主のみ前に、全地の主のみ前に、ろうのように溶けた。
詩篇97:6 もろもろの天はその義をあらわし、よろずの民はその栄光を見た。
詩篇97:7 すべて刻んだ像を拝む者、むなしい偶像をもってみずから誇る者は/はずかしめをうける。もろもろの神は主のみ前にひれ伏す。
「刻んだ像」のヘブライ語「ペセル」は、木や石を刻んだもの、すなわち、人間の技術が生み出したものである。
また、「むなしい偶像(エリィール)は、」は、「偶像」「意味の無いもの」、特に、占い師が作った実体的な意味の無い空しいものを意味する。
人間の技術が生み出した、実体の無いものを、誇りとしている者は、やがて「はずかしめをうける」ことになる。。。
この、「はずかしめをうける」と訳された語「ブシュ」は、「青ざめる」「恥ずかしい思いをする」「がっかりする」「うろたえる」「干からびる」などの意味がある。
つまり、人間の技術が作り出した、実体を伴わない仮想の空虚なものや、アイドル(偶像)にうつつを抜かしながら、何十年も過ごしているとするなら、やがて、うろたえ、恥ずかしい思いをし、がっかりする事になってしまう。
詩篇97:8 主よ、あなたのさばきのゆえに、シオンは聞いて喜び(ギール)、ユダの娘たちは楽しむ(サーマフ)。
詩篇97:9 主よ、あなたは全地の上にいまして、いと高く、もろもろの神にまさって大いにあがめられます。
シオンと、ユダの娘たちにも、ギールとサーマフの二本立ての喜びが、沸き起こった。
彼女たちは、神の民であり、全ての神々をはるかに超えて高きお方が、さばきを実行されたからだ。
キリストの花嫁である教会も、花婿キリストが来られる時、そのように喜ぶのである。
詩篇97:10 主は悪を憎む者を愛し、その聖徒のいのちを守り、これを悪しき者の手から助け出される。
主は「”悪”を憎む者を」愛する、と言われた。
「”悪人”を憎む者を」、ではない点がポイントである。
キリスト者は、悪人が火で焼かれることを望む者たちではない。
悪人と会うとするなら、その人から”悪”をとり除いて、”人”を救い出すのが、キリスト者の本来であり、それがイエス様のご性質である。
詩篇97:11 光は正しい人のために現れ、喜びは心の正しい者のためにあらわれる。
原文は、光は、正しい人のために「種蒔かれる(ザーラア)」と書いてある。
種は、良い地に落ちれば、100倍の実を結ぶが、その良い地とは、正しい良い心で御言葉を聞いて、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせる人の事である。(ルカ8:15)
私達がそうなるなら、私達は光の子供として、世のいたる所に光を届ける者となっていく。
詩篇97:12 正しき人よ、主によって喜べ(サーマフ)、その聖なるみ名に感謝せよ。
パウロも言っている。
ピリピ4:4 あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。
私達は、主を信じる信仰によってこそ正しくされ、この主にあって、真に喜ぶ(サーマフ)事が、すなわち、喜びによって顔がパーッと明るく輝く事ができるのだ。