メッセージ - 主はここにおられる(エゼキエル48:23-35)
エゼキエル書講解説教
主はここにおられる(エゼキエル48:23-35)
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エゼキエル書の最後は、町(都)の描写をもって閉じている.
エゼキエル48:30 町の出口は次のとおりである。北の方の長さは四千五百キュビトである。
エゼキエル48:31 町の門はイスラエルの部族の名にしたがい、三つの門になっている。すなわちルベンの門、ユダの門、レビの門である。
エゼキエル48:32 東の方は四千五百キュビトであって、三つの門がある。すなわちヨセフの門、ベニヤミンの門、ダンの門である。
エゼキエル48:33 南の方は四千五百キュビトであって、三つの門がある。すなわちシメオンの門、イッサカルの門、ゼブルンの門である。
エゼキエル48:34 西の方は四千五百キュビトであって、三つの門がある。すなわちガドの門、アセルの門、ナフタリの門である。
この都は、一辺4千5百キュビト(約2キロメートル)の正方形で、四方の城壁にはそれぞれ3つの門があって、合計12の門がある。
そして、それぞれの門には、12部族の名が付けられている。
ここにおいて記されるイスラエル12部族の名で、特徴的な事は、ヤコブ(イスラエル)の12の息子の名が、一つも欠けていない事である。
聖書の他の箇所でイスラエル12部族が示される時、大抵は、レビとヨセフは除外され、代わりにヨセフの二人の子・エフライムとマナセが12部族として名を連ねる場合が多い。
それは、ヤコブが、ヨセフの子マナセとエフライムをヤコブの直接の子としたためであり(創世記48:5)、また、レビにはゆずりの地は無い代わりに、全部族からの全ての十分の一が与えられ、主ご自身が、彼らのゆずりだからである。(民数記18:20-21)
しかしこの都は、人間的な、地上的な決まり事から、全て解かれ、本来それぞれに与えられたものが回復している。
そしてエゼキエル書の最後は、都の名前「ジェホバ・シャーマーְהוָה שָׁמָּה」で終わる。
エゼキエル48:35 町の周囲は一万八千キュビトあり、この日から後、この町の名は『主そこにいます』と呼ばれる」。
この都の名、「ジェホバ・シャーマーְהוָה שָׁמָּה」の意味は、「主はここにおられる」である。
その名は、インマヌエル(イザヤ7:14,マタイ1:23)と同じく、契約の主の臨在を表している。
そして、「主はここにおられる」の究極的成就が、黙示録21章に記されている。
黙示録21:1 わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。
黙示録21:2 また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。
黙示録21:3 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
黙示録21:4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
この都は、「主が共に」が成就し、永遠に続く都であり、その都の正体は、キリストの妻なる花嫁、すなわち、教会である。
黙示録21:9 最後の七つの災害が満ちている七つの鉢を持っていた七人の御使のひとりがきて、わたしに語って言った、「さあ、きなさい。小羊の妻なる花嫁を見せよう」。
この都にも、エゼキエル書の記述のように、東西南北に門が3つづつあって、それぞれに、イスラエル12部族の名が記されている。
のみならず、12の土台のそれぞれには、新約の、イエス様の12使徒の名が記されている。
黙示録21:10 この御使は、わたしを御霊に感じたまま、大きな高い山に連れて行き、聖都エルサレムが、神の栄光のうちに、神のみもとを出て天から下って来るのを見せてくれた。
黙示録21:11 その都の輝きは、高価な宝石のようであり、透明な碧玉のようであった。
黙示録21:12 それには大きな、高い城壁があって、十二の門があり、それらの門には、十二の御使がおり、イスラエルの子らの十二部族の名が、それに書いてあった。
黙示録21:13 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
黙示録21:14 また都の城壁には十二の土台があり、それには小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。
都には、神の聖徒たちの名が記されている。つまり、都の構成要素は、私達・聖徒たち、という事だ。
エペソ書にも書いてある。
教会(都)はキリストのからだであり、キリストの花嫁であり、そしてそのかしらは、花婿キリストである。
エペソ5:25 夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。
エペソ5:26 キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
エペソ5:27 また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。
エペソ5:28 それと同じく、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばならない。自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである。
エペソ5:29 自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいない。かえって、キリストが教会になさったようにして、おのれを育て養うのが常である。
エペソ5:30 わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。
からだには色々な器官があるように、一人一人のそれぞれの役割は違う。
エペソ4:11 そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。
エペソ4:12 それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、
エペソ4:13 わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。
黙示録3:12 勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。
結局、「主がともにおられる」事の成就・完成は、インマヌエルと呼ばれるイエス様にあって、為されるなのだ。
その都には、主ご自身がおられ、都のどこでも、主の栄光と臨在で満ちている。
黙示録21:22 わたしは、この都の中には聖所を見なかった。全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。
黙示録21:23 都は、日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。
このように、「主がともにおられる」は、神の言葉を守り行う聖徒たちによって、構成される。
出エジプトした民が、荒野において、神の幕屋を中心に行進して行く時も、そうだった。
神の幕屋を中心に、東西南北に3部族ずつ、「十字架」の形で配置された時、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって、主がともにおられる事をあらわされた。
しかし、主の御言葉を信じず、主の言葉どおりに行わないなら、主は、共にはおられない。
民数記14:43b 「あなたがたがそむいて、主に従わなかったゆえ、主はあなたがたと共におられないからである」。
エゼキエル書は、イスラエルの民が、度重なる違反を、主の前に積み上げている事に対する警告で始まりった。
しかしイスラエルの民は、その警告を聞かなかった。
そうしていると、ついに、「主が共におられる」事をあらわす主の栄光が、神殿から離れ、ついには都から離れてしまった。(10章)
すると、バビロンが来て、都は破壊され、神殿も破壊されてしまった。
しかし後に、主はエゼキエルに神殿の幻を見せ、それを、主のはかりざおで正確に測って行くと、主の栄光が帰ってきた。(43章)
出エジプト記においても、神の幕屋についての詳細な様子と寸法が示され、それを寸法どおりに正確に造り、それが完成した時、主の栄光の臨在があらわれ、幕屋に満ちた。(出エジプト記40章)
「主がここにおられる」は、聖徒たちが、主の御言葉どおりを正確に行う所に、あらわれるのだ。
こうしてエゼキエル書は、「主はここにおられる」という、主の御名が付された町の名前で終わった。
そして、聖書の終わり(黙示録)も、主がともにおられる都によって終わる。
結局、私達のこの地上の人生は、主の御言葉を守り行い、「主が共におられる」を礼拝において、そして生活の現場において現すものである。
そうして至る所に神の国を建設し、それが、主の定められた時に至って完成するまで、私達はそれを続けるのみである。