メッセージ - 聖なる、聖なる、聖なる主(詩篇99篇)
詩篇講解説教
聖なる、聖なる、聖なる主(詩篇99篇)
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詩篇99:1 主は王となられた。もろもろの民はおののけ。主はケルビムの上に座せられる。地は震えよ。
「主は王である」という表現が、93篇から反復されている。
その王の王とは、「救い(イエシュア)」をもたらして下さる主、イエス・キリストである。
ここの「おののけ(ラガツ)」は、激しい感情、特に怒りや恐怖で震える事で、「震えよ(ヌット)」は、震える、 動かされる意味である。
イザヤ6章では、御使いが「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主」と呼び交わす声に地は震え、主の栄光の臨在で満たされた。
主の臨在を前に、地は、震える。
そして終わりの時代、神に愛された都を守るために大地震が起こり、神に敵対する者達は、揺るがされる。(エゼキエル書38:19-20、啓示録8:5, 11:13,19, 16:18)
1節の後半では、主は、ケルビムの上のみ座におられる、と書かれてある。
ケルビムとは、いつも主のすぐそばにはべり、聖と俗とを区切り、聖なる領域を炎で守る役割の御使いであり(創世記3:24、エゼキエル1章)、また、主の臨在を運ぶ役割がある。(詩篇18:10)
主は、そのケルビムの間から御声を発し、語られる。(出エジプト記25:22)
詩篇99:2 主はシオンにおられて大いなる神、主はもろもろの民の上に高くいらせられる。
詩篇99:3 彼らはあなたの大いなる恐るべきみ名を/ほめたたえるであろう。主は聖でいらせられる。
ここでは「大いなる」が反復されて、主の「聖」を際立たせられているが、この「聖」という主のご性質が、3節と、5節、9節で反復されている。
「聖(カドシュ)」には「切り分けられた」の意味がある。
聖とは、主なる神の、絶対的かつ排他的なきよさで、罪・汚れのある人間が触れるならたちまち死んでしまう程の、恐ろしいご性質である。
預言者イザヤも、その「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主」を見た時、絶望した。もう自分は死んでしまう、と。
しかし彼は、聖なる祭壇の炭火によって、くちびるの汚れが清められ、罪が贖われたゆえに、主の聖の前で打たれる事なく、主のつとめに入る事ができた。(イザヤ6章)
祭壇には、犠牲のいけにえが燃やされている。
それが触れる事によって、汚れがきよめられ、罪が贖われたように、私達も、犠牲のいけにえとなってくださったイエス様に触れられるなら、罪が贖われ、清められ、主の聖なる臨在の前に大胆に進み出る事ができるのである。
詩篇99:4 大能の王であり、公義を愛する者であるあなたは/堅く公平を立て、ヤコブの中に正と義とを行われた。
ここで反復された語は、ミシュパト(司法的に宣告された判決、さばき)であり、主のさばきの性質は、公平であり、正と義である。
この節では「ヤコブ」という名が、取り沙汰されている。
ヤコブ(かかと、掴むという意味)には、イスラエル(神と粘り強く格闘(すったもんだ)する)という、素晴らしい名が与えられたが、その与えられた後も、時々、人・物・事の足を掴む「ヤコブ」に戻ってしまった。
私達も、本来、神と「すったもんだ」するべきなのに、時には「ヤコブ」に戻ってしまうが、その中でも、主の憐れみ深いミシュパトによって、私達の中の不義は取り除かれ、ますます義なる性質へと練り清められていく、という幸いがある。
詩篇99:5 われらの神、主をあがめ、その足台のもとで拝みまつれ。主は聖でいらせられる。
あがめて、ひれ伏す理由は、主は聖であるからだ。
詩篇99:6 その祭司の中にモーセとアロンとがあった。そのみ名を呼ぶ者の中にサムエルもあった。彼らが主に呼ばわると、主は答えられた。
ここで、祭司としてのモーセとアロンが、また、御名を呼ぶ者としてのサムエルが引用されている。
彼らに共通している事は、主を呼び、そして、主に答えられた事である。
私達も、主イエスの御名を呼ぶ者である。
主イエスにあって、祭司たちの中に、私達もいる。
主を呼ぶ者達の中に、私達もいる。
そして私達は、イエス様にあって、預言者であり、そして、王である。
私達の分は、主の御名を呼び、神と人との間に立ってとりなし祈り、また、主から御言葉をあずかって、それを人々に届ける事、
そして、主にあって「王」として、治める事である。
詩篇99:7 主は雲の柱のうちで彼らに語られた。彼らはそのあかしと、彼らに賜わった定めとを守った。
あかし(エダー)は、他にも証人、証言という意味がある。
定め(ホック)は、制定されたもの、戒め、法律である。
終わりの時代において、主人公となる人とは、「神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たち」である。(黙示録12:17、14:12)
詩篇99:8 われらの神、主よ、あなたは彼らに答えられた。あなたは彼らにゆるしを与えられた神であったが、悪を行う者には報復された。
「主は答えられた」というキーワードが、反復された。(6節)
主を呼び求めるなら、確かにゆるしが与えられる。
しかし同時に、主は、それぞれの「しわざ」に応じて報いる方である、という事も、忘れてはならない。
詩篇99:9 われらの神、主をあがめ、その聖なる山で拝みまつれ。われらの神、主は聖でいらせられるからである。
あがめよ、とは、高くせよ、という事であり、
拝みまつれ、とは、低くなれ、という事である。
すなわち、主を高く上げ、自分は低くなるべきである。
なぜなら、主は聖でいらせられるからだ。
こうして、詩篇99篇では、「主は聖である」が3回、反復された。
聖なる、聖なる、聖なる主。
私達も、イザヤが体験したように、聖なる主の臨在の前に震えおののきつつ、十字架の上で犠牲となられたイエス様よって清められ、贖われ、主のあかし人となり、神と人との間に立つ祭司として取りなし、祈り、また御言葉を伝え、王として統治する者である。