メッセージ - 無割礼の強者が「仕組み」を強要して来る場合(1サムエル記17章)
主日礼拝
無割礼の強者が「仕組み」を強要して来る場合(1サムエル記17章)
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週報/メッセージ(説教)概要
ゴリヤテは、身長2.9メートルの巨体に、殺傷力が高い武器や防具を身につけ、幼い時から戦闘訓練を受けてきた能力にモノをいわせ、神の民を脅し、彼のルールを押しつけて来た。「お前らはサウルの奴隷ではないか」「一人よこせ」「勝負して勝ったら奴隷になってやる」「勝負に負けたら、お前達は奴隷になれ」と(4-9節)。イスラエルの軍は彼に気圧され、意気消沈し、40日もの間、朝夕なぶられっぱなしであった。
私達にもこのような「ゴリヤテ」が立ちはだかるかもしれない。そのゴリヤテは一方的にルールを押し付け、勝手に設けた不利な土俵で勝負するよう要求し、「とても勝てない」と気落ちさせ、なぶられ放題にするような「仕組み」を仕掛けて来る。今、時代が、そうなりつつあるが、聖書には、小さい者が大きな相手を倒す場面が、いくつもある。そのような「ゴリヤテ」がはびこる昨今、その者と渡り合って、勝つ術を学びたい。
イスラエルがなぶられて40日が経った時、少年ダビデは、父からのお使いを頼まれて、そこへ来た。
ダビデは、ゴリヤテが平然とイスラエルをなぶるのを見、また、イスラエルの大人達が皆、彼を恐れて逃げ隠れしているのを見て、大いに憤慨した。ダビデにとって、自分達は「生ける神の陣」なのに、それを、無割礼の者によって良いようになぶられっ放しだったからだ(24-26節)。私達も、きよく保つべき自分の人生や仕事、家庭、経済という「神の陣」を、無割礼の者が好き放題にしているなら、大いに憤り、対処すべきだ。
サウル王は、そんなダビデを呼び出した。サウルは思ったかもしれない。この少年はきっと、少年にありがちな「全能感」に駆られ、大風呂敷を広げているのだろう、と。しかしダビデには、ゴリヤテを打ち倒す根拠があった(34-37節)。ダビデは羊飼いだったが、羊がさらわれたなら、相手が獅子でも熊でも、いのちがけで取り返す性分だった。その性分こそ、神様が「エッサイの子らの中に王を見つけた」と評価された性質だ。
ダビデは「羊飼い」という、人から見れば「下っ端仕事」をしている間、忠実に羊を守り、獅子や熊からさえも、羊を守ったので、主は彼を、イスラエルを牧する「王」とするために、羊飼いの牧場で鍛えておられたのだ。
私達も「羊」を養う時、軽んじてはならない。その「羊飼い」の仕事は、王になるための訓練だと思うべきだ。
サウルは、ダビデに、自分のよろいかぶとを着させたが、ダビデは、それが馴染まない、と分かると、躊躇なく脱ぎ捨て、自分に馴染んだ、「羊を養う道具」を採用した。神の国の戦いは、世の手段や常識に合わせて戦おうとすると、合わなくなる。それを用いようとすると、全然身動きが取れないのだ。主の戦いの武器は、殺傷能力の高い世の武器や、暴言や、脅し言葉などではなく、羊飼いの道具、すなわち、養い守るべき”羊達”を守ってきたことば、手段、方法であり、何より、まことの羊飼いであられる主の言葉だ。ダビデは、川から滑らかな石を5つ取って来たように、私達も巨人を倒すためには、御言葉の水の洗いに揉まれて角が取れた”生ける石”を取り、イエス・キリストという岩の土台に立って、敵に立ち向かうのだ。
45節以降のダビデの言葉には、私達が勝利する秘訣が、ふんだんに込められている。「お前は剣と、槍と、投げ槍を持って、わたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名、すなわち、お前が挑んだ、イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう。」 ダビデは、この言葉によって、武器や力の戦いから、自分の神 vs 相手の神という戦いヘと、シフトした。私達も、主イエスの御名を宣言し、シフトすべきである。
「この全会衆も、主は救を施すのに、剣と槍を用いられない事を知るであろう。この戦いは主の戦いであって、主が我々の手にお前達を渡されるからである」。そう!主は、武器や装備、経済などを使わずに、救う事がおできになる方である!私達も主の約束の言葉に基づいて、イエス様の御名によって、主の戦いである事を宣言し、主に戦っていただくなら、あとは、主が、勝利へと導いて下さる。
ダビデはそうした結果、石ひとつでゴリヤテを打ち倒し、ゴリヤテ自身の武器でとどめを刺した(49-51節)。
そしてダビデがゴリヤテを倒した時、イスラエルは、ゴリヤテが決めたルールなぞ守らなかった(52-53節)。
神の民はそもそも、無割礼の者が敷いたルールに、従わされるべきではない。むしろ、主にあってルールを敷いて、それに、無割礼の者を従わせるべきである。「ゴリヤテルール」は、ダビデの信仰宣言によって「ダビデルール」へと上書きされ、それによってダビデは、勝利した。人生における戦いや、主にある兄弟姉妹の戦いを、「主の戦い」へとシフトして、相手がどんなに巨大でも、どんなに大軍でも、どんな装備であっても、彼らの拠り所としているものが、無力化され、私達の神の前に倒れ、そしられていた日々の復讐の日々が始まり、滞っていた祝福の流れが流れ出して行く皆さんでありますように!