メッセージ - 喜びに彩られた感謝を主に捧げよ(詩篇100篇)
詩篇講解説教
喜びに彩られた感謝を主に捧げよ(詩篇100篇)
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詩篇100篇表題「感謝の供え物のための歌」(ミズモール・ラ・トダー)
ミズモールは歌、あるいは音楽。
トダーは、ユダヤ人の「ありがとう」で、すなわち感謝の言葉である。
この詩篇は、主への感謝で溢れており、1-2節は早速、「喜び」というキーワードで目白押しである。
詩篇100:1 全地よ、主にむかって「喜ばしき声をあげよ(ルーア)」。
1節で提示されている命令形動詞はルーア、これは、95篇1-2節でも繰り返されている動詞で、「喜び」という感情に脚色された叫び、大声、大きな音を立てる事である。
その命令の対象は、コール・ハ・エレツ(地の全て)、つまり私達人間のみならず、全被造物である。
詩篇100:2a 喜びをもって主に仕えよ(アーバド)。
2節の命令形動詞は「仕える(アーバド)」。
それは、奴隷やしもべとして聞き従う事、すなわち、自分の意思を降ろし、相手の意思に服従する事だ。
アーバドする事、すなわち、奴隷として仕える事には、苦しみが伴われると思われがちだが、主に限っては、そうではない。
人間は不完全であり、罪があるので、人間に隷属する事には、苦しみが伴うかもしれないが、完全であられる主に仕えるなら、仕えるほど、喜びが湧き起こってくる。
神の民たる者は、もし、自分の願った事と、主の願っておられる事が食い違っていた場合、すぐに自分は降ろし、主の御旨に従うものであるはずだが、それが成熟して行けば行くほど、従う事の喜びは大きくなっていく。
結局、クリスチャンのレベルアップの度合いは、教会に通った年数でも、歩数でもない。
いかに喜びつつ、主の前に自分を降ろせるか、いかに喜んで主に聞き従えるかどうか、それによって計られる。
詩篇100:2b
歌いつつ(レナーナー)、そのみ前にきたれ(パニーム)。
レナーナーとは、喜びの感情によって色どられた叫びや、歌、おどりである。
コンサートで主演者がステージに現れたら、詰めかけたファンに沸き起こる、あれである。
私達は、そうしたファン以上に、主の前にレナーナーする者だろうか?
私達がレナーナーしながら行く先が、「主のみ前(パニーム)」である。
パニームとは顔、すなわち、面前で、英語ではプレゼンス(臨在)と訳されている。
主の臨在(面前)に、喜んで行くのが、主の民であり、主の面前に行きたがらないのが悪魔サタンに属する者達である。
出エジプトした民は、主のしるしや奇跡を体験したにもかかわらず、主の臨在(パニーム)の前でつぶやき、罪を犯したため、約束の地に入れなかった。
私達キリスト者は、いつでも、主の御前に、主の臨在にいる、という意識を持ちながら、日常を歩むべきである。
詩篇100:3 主こそ神であることを知れ(ヤーダー)。われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である。
3節の命令形動詞は、「知れ(ヤーダー)」である。
何を知るべきか?
主こそ神である事、主が私達をつくられた事、を。
詩篇100:4a 感謝しつつ(トダー)、その門に入り、ほめたたえつつ、その大庭に入れ。
ここの命令形動詞は「ボー(入れ)」。
入っていく門の先、その大庭とは、主を礼拝する場所である。
私達は礼拝するために教会の門をくぐる時、「感謝」と「ほめたたえ」の心をもって、入っているだろうか。
詩篇100:4b 主に感謝し(ヤーダー)、そのみ名をほめまつれ(バラク)。
ここの命令形動詞は「バラク」、祝福する、とよく訳される語であるが、元々は「ひざをつく」である。
主の前にひざをついて自分は低くし、そして主を高めるのだ。
こうして4節は、トダーと、ヤーダーがセットで示された。
トダー(感謝)は、ヤーダー(知る)が元になっているヘブライ語である。
感謝とは、相手を知ってこそ出来るものであり、主を知っていればいる程、感謝が溢れ、賛美に力を入れるものである。
もし、主への感謝が、沸き起こって来ない、という人がいるなら、まず、主を「知る」事から、はじめるべきである。
主を知れば知るほど、感謝と喜びが沸き起こってくるからだ。
そして、そのような人がする賛美は、その表情や節々から、喜びが、感謝が、にじみ溢れて来ているものだ。
詩篇100:5 主は恵みふかく(トーブ)、そのいつくしみ(ヘセド)はかぎりなく、そのまことはよろず代に及ぶからである。
主のトーブは、創世記1章において、主の創造のわざに対し、主ご自身が「よし」と言われた語であり、パーフェクト、ビューティフル、グッドの意味がある。
続くヘセドは、恵み、慈悲、憐れみ、いつくしみ深い、の意味である。
詩篇100篇の最後は、この、主のトーブとヘセドで飾られた。
詩篇23篇も、そうだった。
詩篇23:6 わたしの生きているかぎりは/必ず恵み(トーブ)といつくしみ(ヘセド)とが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。
今回の詩篇でも、3節で、主を羊飼いとする告白をした。
主を自分の羊飼いとするなら、主のトーブとヘセドが、生涯、追いかけてくるのだ。
主の御業は、つねにパーフェクト、ビューティフル、グッドであるが、
人は主の言葉に反して、ことごとく、トーブの逆の実を、すなわち、不完全、醜さ、悪さ、を結ばせて来た。
それらを人生で実らせてきた結果、もたらされたのが呪い、病、死である。
しかし、その状態に縛られた人間に、救いの手が差し伸べられて、主の再創造のトーブわざが、与えられた。
それが「恵み(ヘセド)」である。
恵みとは、一方的に与えられるものであり、それは一切人間のわざではなく、ただ一方的に主から与えられる、良きわざである。
主の家に住まう事、
主を羊飼いとする事、
それこそ、生涯、トーブとヘセドが追いかけてくる生き方なのだ。