メッセージ - 私達の中の邪悪な性質を追い出して下さるイエス様(詩篇101篇)
詩篇講解説教
私達の中の邪悪な性質を追い出して下さるイエス様(詩篇101篇)
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この詩篇は、ダビデによるもので、彼が「このように生きたい」「このように歩みたい」と表明し決心した詩である。
そして同時に、この詩篇は、ダビデの子孫として来られる王の王、イエス・キリストのご性質を、的確にあらわしている詩篇である。
詩篇101:1 わたしはいつくしみと公義について歌います。主よ、わたしはあなたにむかって歌います。
1節の、前半の「歌い」はシール、「声」で歌う意味で、後半の「歌い」はザーマル、指で弦楽器を弾く事や、歌う事を意味する。
何を、歌うのか。
それは、主の恵み(ヘセド)と、さばき(ミシュパト)を、である。
ミシュパトは、司法的に宣告された判決、さばきを意味するが、人は誰一人、主の裁きの前に立つ事はできない。
そこで、主の恵み(ヘセド:恵み、慈悲、憐れみ、いつくしみ深さ)が必要なのだ。
父なる神様は、義であられ、罪ある者を罰さざるを得ない。
しかし恵み(ヘセド)深い神様は、そのヘセドのゆえに、御子イエス様を、私達に送ってくださった。
彼の贖いのゆえに、私達はイエス様にあって、父なる神様の前に進み出る事ができるようになった。
それで私達・キリスト者は、主のさばきを「喜び」「慰め」として受け止める事ができる。
それを、私達もダビデのように、歌うのである。
しかし、サタンとそれに同意する者は、主のさばきを恐れる悲しむ以外に無い。
だから、誰もが、キリストにあって救われる必要があるのだ。
詩篇101:2 わたしは全き道に心をとめます。あなたはいつ、わたしに来られるでしょうか。わたしは直き心をもって、わが家(ベイト)のうちを歩みます。
ダビデのように、「全き道」に、心を留める人は、主が来られる日を、今か、今かと、心待ちにする。
しかし、後ろ暗い事をしている人は、主に、来てほしくない、と思う。
ダビデ個人としては、彼は、全き道に心を留め、正しい心で、自分の家の中を歩もう、と、決心し、宣言した。
しかし残念ながら、ダビデは、全き道を歩まなかった。
彼は、彼の家の中で罪を犯し、また、彼の家に生まれた後の子孫も、罪の道を歩み始めてしまった。
しかし、だからといって私達は、「ダビデは”直き心をもって、わが家のうちを歩みます”などと言う資格はない」と、断罪することはできない。
ダビデはたしかに、罪を犯した。
犯したけれども、彼は、主の前に進み出て、赦しを願い、主に喜ばれる道を歩もうと、もがいた。
私達も、もがくべきである。
たとえ罪を犯したとしても。
主に喜ばれる道を歩もうと決心し、宣言し、もがきつつも努力し続けるべきなのだ。このいのちがある限りは。
ダビデは「全き道に心をとめる」と言ったが、どうしたら、全き道を歩めるか。
それは、主の前に歩む事によって、である。
創世記17:1 アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
ここで主が宣言された通り、全能の神の「前(パニーム:面前)」を歩むなら、人は、全き者になれるのだ。
人はたとえ、罪の行いを全くせず、品行方正に歩んだ、としても、神と共に歩まないとするなら、彼は、全き者ではない。
人は、単体では、全き者にはなれない。
ただ、全能の神と共に歩む事によってこそ、全き者になれるのだ。
アブラハムは、86歳から99歳までの間、神様抜きで、13年歩んだ。
しかし、神様の憐れみが注がれて、神様のほうから彼にあらわれて、わたしと共に歩んで全き者となれ、と言って下さった。
ダビデもまた、自分の家の中で、罪を犯したが、彼はそれでも、罪を犯したままの自分を、そのまま主の御前へと持って行った。
罪を犯したからといって、神との歩みを止めなかった。
むしろ、犯したからこそ、その罪ある自分を何とかしてほしい、と主の御前に持って行き、あくまで神との歩みを止めなかった。
だから、彼は主に愛され、主の憐れみを受けたのだ。
ダビデは2節で言っている。
わたしは「直き(トム:完璧さ、純粋さ、シンプルさ)」心をもって、わが家のうちを歩みます、と。
つまり、主の前の純粋さ、シンプルな心をもって、主の前に歩む人を、こそ、主は憐れんでくださるのだ。
そういうわけでダビデは、「主よ来て下さい」、と、何のわだかまりなしに言えたのである。
詩篇101:3 わたしは目の前に卑しい事(ベリヤアル)を置きません。わたしはそむく者の行いを憎みます。それはわたしに付きまといません。
彼は、彼自身の前から「ベリヤアル」を、すなわち、邪悪な者を自分の中に置かない、
むしろ自分は、背く者の行いを憎み、それをまとわりつかせない、と、決心し、表明した。
罪を犯したダビデが、よくもそんな事が言えるものだ、と、私達は言うことはできない。
私達にも、いつ罪を犯してもおかしくはない「罪のとげ」が刺さっているからだ。
私達も、日々、ダビデのように、罪をかなぐり捨てる事の表明をし、競争を耐え忍んで走っていくべきなのだ。
キリストとベリアルは、共生できないからだ。(2コリント6:15)
詩篇101:3 わたしは目の前に卑しい事(ベリヤアル)を置きません。わたしはそむく者の行いを憎みます。それはわたしに付きまといません。
もし、キリストが私達のうちに住んでいない、キリストに住んで欲しい、と、願うなら、
ダビデのように、私達の内のベリヤアルを置かない、と宣言し、それを憎み、それが出ていくまで「イエスの御名によって出ていけ」と宣言し続けるべきである。
ヘブル12:1 こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。
詩篇101:4 ひがんだ心はわたしを離れるでしょう。わたしは悪い事を知りません。
詩篇101:5 ひそかに、その隣り人をそしる者を/わたしは滅ぼします。高ぶる目と高慢な心の人を耐え忍ぶ事はできません。
5節は、「そしる」という意味のラーシャンが、反復強調されている。
この、隣人をそしる性質、高ぶる目、高慢な性質は、サタンの性質である。
日本語訳では、ダビデはそのような「者」を滅ぼします、といっているように書かれてあるが、それでは、ダビデは恐怖政治をするつもりなのかというと、そういう事ではない。
原文には元々、「滅ぼし」の対象となる目的の語は無いので、ここはむしろ、わたしは「隣人へのそしり」を滅ぼします、という事だろう。
私達も、自分自身の中から、また、自分のグループの中から、サタンの性質を、滅ぼすべきである。
ダビデには、それは結局できなかったが、ダビデの子孫・イエス様は、真に、私達の中から、そのような性質を断ち切り、滅ぼしてくださる事が、おできになる方だ。
そしてゆくゆく、イエス様は、悪魔サタンそのものを、断ち滅ぼして下さる。
黙示録22:15 犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。
黙示録22:16 「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」
詩篇101:6 わたしは国のうちの「忠信な(アーマン)」者に好意を寄せ、わたしと共に住まわせます。全き道を歩む者はわたしに仕えるでしょう。
ここもまさに、イエス様のご性質が、そのまま歌われている。
アーマンは、アーメンの元となった語であるが、イエス様の元には、彼にアーメンする人達が来る。
そして彼に対して「アーマン(忠信)」な人達が、イエス様とともに住み、とこしえにイエス様に仕える事が、黙示録に書かれてある。
詩篇101:7 欺くことをする者は/わが家のうちに住むことができません。偽りを言う者はわが目の前に立つことができません。
イエス様も言っている。
啓示録22:15 犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。
詩篇101:8 わたしは朝ごとに国の悪しき者を/ことごとく滅ぼし(ツァーマト)、不義を行う者をことごとく主の都から断ち除きます。
ダビデ個人としては、そのようにあろうと宣言した。
それを実行できるお方は、まことのダビデの子孫、イエス様お一人である。
私達はイエス様にあって、ダビデのように、日毎、主とともに歩み、全き者の道を歩んでいく者達である。
キリストとベリヤルは、共生できない。
だからもし、私達の中に、邪悪な性質がはびこる都度、それに「しょうがないや」と言って妥協したりしてはならない。
都度、ベリヤアルを追い出し、主の前に歩む努力をすべきだ。ダビデがしたように。
そのような日々こそ、主の面前を歩む道、まったき道だから。