メッセージ - 白く塗った壁(使徒23:1-11)
礼拝説教メッセージ音声:白く塗った壁(使徒23:1-11):右クリックで保存
韓国語通訳有
パウロは大祭司や指導者達の集う公の場で弁明する事になり、自分は良心に少しのやましいところなく神の御前に生きて来た事を証した。(使徒23:1)
神との間に何の後ろめたさも無いなら実に堂々としていられるが、神との間に何かしらある者はそうではなく、多くの不審な挙動と言葉の洪水によって自己弁護し、あるいは他人を責め立て告発する。
パウロが大胆に証し始めた時、大祭司アナニヤはパウロの口を打てと言った。
律法では、有罪と認められない限り被告に罰を加えるのは不当である。
パウロは彼を「白く塗った壁」と言ったが、それは自分に暴言を吐いたから仕返ししたのではなく、律法に従って裁く座についておきながら律法に反しているから「神にいずれ打たれてしまう漆喰で塗ったり壁」(エゼキエル13:10)という御言葉を適用しただけである。
アナニヤは人々の前では大祭司だったかもしれないが、どんなに人間的権威のある地位に居ようとも、御言葉に沿っていない者は、霊的には「神に崩されてしまう白く塗った壁」に過ぎない。
それでもパウロはアナニヤが大祭司だと知った時「確かにあなたの民の指導者を悪く言ってはならないと書かれている」(出エジプト22:28)と、御言葉にあって口をつぐんだ。
いかにその者が神に打たれるべき塗り壁だとしても、その者が指導者であると知り、指導者を悪く言ってはならない、という御言葉を知ったなら、祝福を得るために、私達も口をつぐむべきである。
最高法院に集った者達が大いに議論を沸かせる原因となった言葉は、御言葉でもイエスの証でもなく「私はパリサイ派です」という「どこの組織の者か」という言葉だった。
それも、千人隊長がまたしてもパウロを強制的に退場させるほど議論を沸かせた。
結局彼らにとっては、どの組織、どの先生、どの神学に属するかが、御言葉よりも重要だったのである。
「その夜、主がパウロの傍に立って、こう言われた、「勇気を出しなさい。エルサレムで私のことを証ししたと同じように、ローマでも証ししなければならないからである」」(23:11)
主が夜現れて御言葉を与えられたのは、大祭司ではなくパウロであり、大祭司や指導者連中に関しては、一言さえ言及されないほど、相手にされていない。
主は、御言葉に即していない宗教的権力者達は相手にされず、御心を求める小さい者にこそ現れて下さり「勇気を出しなさい」と力づけてくださるのだ。
私達が危機的状況に陥る時、もし私達を責め立てるものが、御言葉に敵対する者であるなら、私達は御言葉の保護にある限りは全く恐れるに足りない。
主は「恐れるな」と言われ、私達を通して御心をなされるまで、責任を取って守り通して下さる。
しっかりと御言葉に根ざして歩み、恐れず神を証してゆく皆さんでありますように。
主イエス・キリストの名前によって祝福します!