メッセージ - ライオンや熊、巨人をも倒す人が、日頃している小さな習慣(1サムエル記17:31-37) 早天祈祷会 2026年1月28日(Wed)
ライオンや熊、巨人をも倒す人が、日頃している小さな習慣(1サムエル記17:31-37) 早天祈祷会 2026年1月28日(Wed)
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- 執筆 :
- pastor 2026-1-28 7:00
ライオンや熊、巨人をも倒す人が、日頃している小さな習慣(1サムエル記17:31-37)
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【概要】
ダビデがゴリアテに立ち向かう場面を通して、私たちも主の霊が共にいるゆえに、どんな強敵にも立ち向かうことができることを学びます。肉的な力量差ではなく、内におられる主と敵との力量差を見るべきであることが語られています。
【聖書箇所】
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第一サムエル17:31-37(中心箇所)
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第一サムエル17:32-33(宣言箇所)
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ヨハネ10:11
【励ましの言葉】
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主の霊が共にいるならば、ライオンも熊も、そしてゴリアテも倒すことができる
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小さなことに忠実な人は、やがて大きなことを任される器となる
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主が私たちの右にいますゆえに、私たちは揺らぐことがない
【勧めの言葉】
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世と戦う時は、自分のうちにいるイエス様と世を比較すべきである
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今任されている仕事を、どんなに小さく思えても、主から与えられた仕事として忠実に行うべきである
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普段から主と親密に交わり、主を拠り所とすべきである
【***詳細***】
今朝、恵みをいただく御言葉は、第一サムエル記17章31節から37節です。
まず32節と33節を一緒に宣言しましょう。
「ダビデはサウルに言った。『あの男のために誰も気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう。』サウルはダビデに言った。『あなたはあのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。あなたはまだ若いし、あれは若い時から戦士だったのだから。』」(第一サムエル17:32-33)
アーメン、ハレルヤ。愛するイエス様、あなたは私たちのうちに救いの勇士となって立ちはだかって、敵の前に立ちはだかり、また悪魔サタンの前にあなたが立ちはだかって勝ってくださり、あなたが勝利してくださる主であられることを感謝いたします。
今日も我らはあなたを拠り所といたします。あなたが我々の盾、あなたこそ我の甚だ素晴らしい優れた報酬であると、今年示されております。主よ、今日もまた、あなたが救いの勇士となって、我が魂が戦う時に、主よ、あなたが指揮者となって我らを導いてください。
主は生きておられます。生きている主は皆さんのことを見ておられ、皆さんと共にいたいと、皆さんのことを愛しておられます。救われてほしい、この世に対して勝利してほしいと願っておられるのが私たちの主ですね。ダビデの時代において生きておられ、働かれた主、奇跡を起こされ、また圧倒的な敵に勝利をさせてくださった主は、今、皆さんと共にいます。共に働かれる主です。この主に期待しましょう。
ここにまたダビデの話ですけども、ダビデはサウルに「あの男のために誰も気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう」と言いました。みんなが気落ちしている様を見たんです。ダビデは何度も兵士たちに「あの男を倒す者はサウルは何をくれると言ったんですか」って尋ねておりました。ということはダビデは分かったんです。この大人たちだけでなく、サウルさえも気落ちしていたんだって、あのゴリアテによって。
本当にみんなが気を落としていた。でも「誰も気を落としてはなりません」とね、「このしもべが行って」ね、「あのペリシテ人」ね、あの巨人とか、あの戦士とか言ってないですね。あの無割礼のもの、あのペリシテ人と戦いましょう、と奮い立ったんですね。本当に聖なる憤りで満ち溢れていたからですけども、でもそれに対してサウルは何をね、このこんなね、まだ顔が赤い少年が、自分の相手をわきまえないで、なんか根拠がない全能感に満たされて、なんか幼少的全能感っていうんですかね、大言を言ってるんだ、まあ、そのぐらいに思ったのかもしれないですけども。
けれども、この結局サウルが言ったのはね、ダビデがこのゴリアテと戦うことはできない。その理由は、あなたはまだ若い、経験がない、また力も筋力もない。けれども、あれはね、ゴリアテは若い時から戦士だったから、もうずっとスキルを積んで、そしてダビデぐらいの時からもうすでにダビデを上回る、そういう戦士としての訓練を受けていた。それがもう積もりに積み重なって、経験もあり、筋力もあり、ガタイもありね、その体力差、体重差もある。だから、あなたはあれと戦うことはできない。
皆さん、このように体重だとか経験だとかですね、肉体の力、そうした肉的なもので相手と自分を測るとするならば、これ勝てないになってしまうんですね、この罠は。
実はこのモーセの時代においてもイスラエルの民がしたんですね。モーセの時代、イスラエル人はあのアナク人、巨人たちを見てで、それで自分たちはイナゴのようだ。この価値観で測って、自分はあれと戦うことはできないね。自分たちは食い尽くされるね。
それに対してヨシュアとカレブは、いや、自分たちが勝つ。なぜ、自分たちのうちにいます神、このイスラエルの先祖の神がね、イスラエルのうちを歩まれる私の主があれと戦うのであるならばね、もうあれはもうイチコロだ。あの者たちが持っていた素晴らしい土地、素晴らしい町々、素晴らしい畑、それを我がものにできるんだって、もう本当に喜び勇んでですね、行ったんですね。
けれども結局イスラエルの人たちはその時、あの時代はね、このヨシュアとカレブを、石を投げようって。で、そこで主が介入して、もうこんな不信仰な世代はあの約束の地に入れないっていうことになって、それで40年という年月、ずっと荒野で過ごすことになりました。
このダビデの時代においてもサウルたち、40日も殴られっぱなしの状態でした。それはこのサウルの一言に集約されておりますね。「あれは若い時から戦士だったのに」。それに比べてあなたはね、まだ若い。こういうふうに目に見えるもの、物理的なね、筋肉だとかね、あるいは経験だとか、そうしたもので世と戦うと嘔吐すると、それならばまあ当然こういう負け思考に陥ってしまうわけですけども。
皆さん、世と戦う時はですね、皆さんのうちにいますイエス様と世を比較してください。皆さんのうちにいますイエス様はね、世のあの人、この人よりも強いですね。イエス様の方がはるかに世のあの人、この人ね、お金何億円、何兆円資産があるね。それ引き換え、私たちがね、そういったね、なんかお金だとか物量だとか物理的なものだとかで比較したら、負け根性に入ってしまいます。
皆さんが負け根性に今あるとするのであるならば、物理的なもので比較しているから、力量で経験値で比較しているからですね。ぜひ皆さん比較するんだったら、皆さんの内にいます主と相手を比較してください。するならばね、この勝利思考、もうゴリアテを倒す思考があるんですね。
ダビデは決して根拠がない全能感に浸されたからじゃなくて、根拠がありきの、この勝てるねに至ったわけですね。ダビデは何と比較したのか。ダビデのうちに、この時もね、主の霊が注がれておりました。サムエルがこのダビデに油を注いだ時ですね、主の霊が激しくダビデに下ったって書いてありますけれども、今、皆さんも主の霊が下っているんです。
実を言うと、その根拠は御言葉にあります。皆さんは誰も聖霊によるのでなければ、イエスを主とすることはできないって書いてあります。皆さん、イエスを主としてますか。なら聖書に書いてあります。聖霊によったからです。もうすでに聖霊が皆さんのうちにいるんです。このダビデの上に注がれたあの聖霊が皆さんのうちに、もうすでに注がれている。
そのうちにいます霊。さっきも賛美しましたね。御霊ともにハレルヤともに増して、もう主の霊が共にある。だから皆さんは暗き道を進みゆき、またいかにこのゴリアテが立ちはだかろうとも、でもこの主の霊にあって、皆さんは激しく、もう恐れではなく、不安でもなく、もう主の霊によって、このゴリアテに相対することができるんですね。主の霊がね、共にある。
このダビデをですね、このサウルに推薦した人も言ってるんですね。「主がこの人と共にいる」ね。「彼は勇士であり戦士で、言葉には分別があり、体格も良い人」だって前の16章の方に書いてあります。主の霊が共にある人というのは勇士であり、戦士になるんです。言葉に分別がつくんです。
自分には分別がない、そういう人はね、また知恵がない、そういう人は惜しげなく、咎めることなく与えてくださる主、主に求めなさい。そして主が知恵を与えね、分別を、また思慮を与えてくださるからね。本当に主に求めるべきです。皆さんのうちにいます生きておられる主。このお方から皆さんに知恵が与えられ、力が与えられ、分別力が与えられ、そしてゴリアテに勝利する術が与えられるんです。アーメン。
さらにですね、ダビデはサウルに言うんですね。
「しもべは父のために羊の群れを飼っています。獅子や熊が来て群れの羊を取っていくと、私はその後を追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出します。それが私に襲いかかる時は、その髭をつかんで撃ち殺してしまいます。」(第一サムエル17:34-35)
アーメン。あのダビデなんとですね、あの獅子やね、ライオンや熊をも撃ち殺したんですね。今、日本で熊が、あの出没がやたら多くなっております。その映像を見ると、もう熊すごいですね。あんなでかい体重で、もうこんな風にして、もうこの爪に引っかかれたら、もうそれだけであのえぐられてしまうような、そういう強い、その熊の髭をつかんで撃ち殺すことができた。
また何か少年が一つ、また一つの大風呂敷を広げた、大口を叩く少年がみたいな、なんとなく皆さん、そんなふうに思ってないでしょうかね、思ってないだろうか。いや、実際に撃ち殺したんだよと。こう、誰がライオンとか熊をですね、実際殺したんですね。なぜ、主の霊が注がれたからですね。
他にもライオンを素手で撃ち殺した人、聖書出てきましたね。皆さんご存知ですか。サムソンですね。そうです。後ろの方で声がしましたね。サムソンです。主の霊が激しくね、サムソンに下ったと書いてありました。主の霊が注がれるのであるならば、皆さんはライオンをも熊をも撃ち殺せるんです。主の霊が注がれればですよ。それ抜きでライオンに立ち向かっても仕方ありません。
主の霊が注がれる人はどういう人か。こうダビデの特徴を見ますと、彼、本当に羊を命がけで守ろうとしていたんですね。羊を大切に思う人は、なんとかして、この自分の羊をライオンから熊から守りたいって、そういうふうに羊に対する愛情、皆さんも羊いるでしょうかね。子供、羊、あるいは年を取った親という羊をね、養わなくてはならない。あるいは職場の部下ね。本当に皆さん、羊を大切に思う人は、イエス様の性質を身を帯びている人です。
冒頭で宣言したのは、ヨハネの福音書10章11節ですけども、
「私は良い牧者です。良い牧者は羊のために命を捨てます。」(ヨハネ10:11)
と書いてありますね。またね、牧者ではなく、羊の所有者でない雇い人はね、要するにアルバイターは狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げていきます。それで狼は羊を奪い、また散らすのです。霊的なアルバイターであったとするならばね、熊やライオンには立ち向かいません。
けれども、本当にこのイエス様の心、志を受けている人、またイエス様のごとく、本当に羊を大切にしようとする人、そういう人にはイエス様の性質を身に帯び、主の霊が注がれて、そしてこのライオンやクマにも立ち向かう術があるんです。羊を命がけでも守る人ね。本当にそれを身につけたいと思います。
この章では皆さんも本当にこの羊を命がけでも守るという、その志、身につけるべきです。そういう人はライオンやクマに立ち向かえる人となり、またそしては最終的にはゴリアテをも倒せる人となります。このダビデはね、このイエス様のご性質を身につけておりましたゆえにね、ライオンを倒し、クマも倒し、ゴリアテを倒し、そしてついにはやがてこのイスラエル全体の牧者となりました。
神様はいつの時点でこのダビデを王と認めたか。それはまだこの聖書にダビデという名前が記される前からですね。サムエルに対して神様はおっしゃいました。「サウル王はもうダメだ。しかし私はこのイスラエルの王をエッサイの子供の中で見出した」っていうですね。まだ油が注がれる前です。ダビデに。その前からもう神様はエッサイの子供の中でイスラエルの王となるものを見つけ出したと言いました。
彼には彼が羊飼いであり、親の中で誰も見向きもされなかった。兄弟のうちで最も軽んじられていた頃から、もうすでにこのダビデを見出していたということです。ということはダビデは、もう有名人になったから主の霊を身につけたんじゃないですね。有名人になったから、この私は神さんに従おうという志を頑張ったわけではありません。その前から、羊飼いの野にいる時からです。
この羊飼いの仕事、押し付けられたって言って、こんな、もうこんな汚い、きつい、こんな仕事、下っ端仕事って思って軽んじて、羊を適当にあしらっていたとしたら、そういうふうにはならなかったことでしょうね。
皆さんね、今任されている仕事、それを下っ端仕事と思って軽んじたりしていないでしょうか。しっかりと与えられた仕事が羊飼いであったとしてもね、トイレ掃除であったとしても、それを本当に主と共に交わり、主から与えられた仕事として、それを重んじて、それを心してやるのであるならば、羊飼いの野がまたね、トイレはね、そこが主の霊が共にいます場所となり、主の訓練を十分に受ける場所となり、そしてやがてはあ、この人はね、こんな羊を、動物の羊を飼っている器ではないね、イスラエル全体という羊を飼う器だというふうに、どんどんどんどん成長していくんです。
小さいことに忠実な人はね、大きなことにも忠実だとイエス様おっしゃいましたね。だから、今与えられている小さいことと思えるようなことをも忠実にね、それをこなしていくのであるならば、皆様に対して大きなことを主がさらにさらに任していくんですね。
本当にねこの小さな一地方教会の中でねというふうに思っていたとしても、いや、思ってはなりません。主から任された働き場だっていうことで、忠実に忠実に御言葉に忠実にしていくのであるならば、やがて神様は見出すんです。そして皆さんをこのね、小さな地方ではなく、さらに大都会へと、さらには全世界へとね、用いられる器として用いていくんです。小さなことに忠実であるならば、そういうふうになっていくんです。
ダビデは本当に軽んじないで、いつも主と親密に交わっておりました。大切に羊の面倒を見ておりました。この羊の牧場、そこにおいて彼自身、本当に主と親密に交わって、「主こそ私の受ける分です」とダビデは詩篇で言いました。「主が私の相続財産です。主が私の右にいますように。それゆえ私は心が喜び、楽しみ、平安だ」。ダビデはいつも言っておりました。
羊飼いの野においても、主が共にいますね。主の霊が共にいます。それがこのダビデはね、本当に大きく大きく、やがて用いられて、主に見出されてね、「主から私はエッサイの子供の中にイスラエルの王を見出した」になるんです。
この日本の中に、この天性の中に、日本の王を見出した、主から言われる皆さんでありますように。イエス様の名前で祝福いたします。アーメン。
ユーチューブの皆さんも、その場所、場所において主と共に親密に交わるのであるならば、そこが主の霊が共にいます場所。やがてはこの皆さんの場所、場所、あるいは日本を、世界を治めていく、そのような器になっていきます。アーメン。
ダビデはですね、彼自身ね、獅子を倒し、熊でも撃ち殺したね、います。であるならば、あの割礼を受けていないペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから。アーメンね。
さらにダビデが言います。
「獅子や熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」(第一サムエル17:37)
ダビデに、サウルはダビデに言った。
「行きなさい。主があなたと共におられるように。」(第一サムエル17:37)
アーメン。主が共にいます。これが本当に私たちの戦う根拠であり、またこの王様さえも認めるようになる根拠です。ダビデは獅子の爪や熊の爪から私を救い出された主が根拠だと言ってますね。自分はライオンを殺したぞ、熊も殺したことがあるんだぞじゃないんですね。獅子や熊を殺す力を与えてくださった主が私の根拠ですよということをダビデはここで告白してますね。
皆さんも私は主にあって大勢を相手に勝ったぞね、皆さん自身の力ではなく、主が共にいますからねということを誇るべきです。皆さん自身がね、誇ったらサウルの道になってしまいます。サウルはね、主がアマレクを打ち滅ぼせって言われて、あなたの手に渡すと言われたから出て行ったから、もう主がすでに手に渡しておられるアマレクを打ち破ったからサウルは勝てたんですけども、しかしサウルはその勝ったことで傲慢になって、自分の記念碑を建てました。でもそれで主から見切られてしまったんですね。
皆さんの戦いの根拠は主です。ダビデは、この獅子の爪、熊の爪から私を救い出された主が同じようにして、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくれるでしょうと言いましたね。ダビデははっきりと認識しておりました。自分を、羊を救い出させてくださった主。自分が本当に羊を守るために出て行って、熊の元に立ち向かっていって、そして熊の口から救い出し、勝利させてくださったのは主だと。はっきりとね、ダビデは認知しておりました。だからこのゴリアテを打ち負かすという確たる自信を持っていたんです。
皆さんもね、小さな経験の積み重ねです。まず羊を守る。守って、そしてね、皆さんの羊を悪魔サタンから守りたい。その願いを持って、悪魔サタンに立ち向かうのであるならば勝利する。そして、その勝利を積み重ねていったのであるならば、もっと大きな勝利を得て、そしてどんどん自信を得ていく。
このダビデはね、さらに勝てる根拠がありましたね。その根拠は、「あの割礼のないものは生ける神の陣をなぶったのだから」ねというふうに、ここのサウルとの会話で宣言しました。ね、生ける神の軍に戦いを挑んだということであるならば、生ける神様がこのゴリアテと戦うものだって、このまあ、いわば言葉尻をつかんでですね、あるいは真理の上に立って宣言しましたね。
皆さんもね、言葉尻をつかんでください。「あのものは生ける神の陣に戦いを挑んだのだから」って、であるからには、あの人を扱うのは生ける神様だ。
現実が皆さんに対して立ち向かう時、ゴリアテのような、そういう強敵が皆さんに立ち向かう時、皆さんは主を拠り所とするべきです。そして皆さん自身が清くね、皆さん自身という生ける神の陣を清く保つ。するならば、主が皆さんの代わりに立ち向かってくださいます。
この私たちも本当に力量がないかもしれません。若いかもしれません。経験がないかもしれません。小さいかもしれませんけれども、誰だって小さかった、経験がなかったね。それでも彼には根拠がありましたね。生ける神様ですね。「主こそ私の受ける分です」とダビデは告白しました。「主が私の右にいますゆえに、私は揺らぐことがない」と言いました。「主が共にいますから、私は青銅の弓をも引ける力があり、主の名によって城壁を飛び越えるのだ」とね。「主の名によって敵を打ち負かすのだ」と、ダビデは詩篇で書き記しております。
皆さんも本当に皆さん自身の牧場において、主と親密に交わってください。皆さん自身の詩篇をね、書き残してください。そして主と親密に交わるねとするならば、その主が相手と戦ってくださるね、その確信を得ます。
サウルや、またこの40日、殴られっぱなしだった大人たちは、本当にこの自分と相手との力量差として見ていたから、そういうことができませんでした。普段から主と交わっていないでねええ。主を礼拝する時はうやうやしくてもですね、いざ世の中に出て行く時、世の戦いをする時、自分と相手の力量差で戦うと、この罠に陥ってしまいます。
ダビデこそが誰よりもわきまえておりましたね。サウルとしてはこのわきまえのない少年と思ったかもしれないですけど、しかし、ダビデこそ誰よりわきまえていたんです。自分のうちにいます主と相手との力量差をね。そしてサウルたちこそわきまえておりませんでした。
私たちはわきまえましょう。私たちのうちにいます主は、いかに力強いお方であるのか。ゴリアテが相対する時、皆さんは普段から親密に交わっておられる主にあって向かって行き、青銅の弓を引き、また城壁を飛び越え、この悪魔サタンに奪われている魂たちを、羊たちを救い出し、そして本当に主にあって栄光を治めるものとなっていく皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン。
【結論】
私たちの戦いの根拠は、私たち自身の力量や経験ではなく、私たちのうちにおられる主です。ダビデが羊飼いの野で主と親密に交わり、羊を命がけで守る中で主の力を経験したように、私たちも日々の小さな場所で主と交わり、忠実に歩むならば、主の霊が共にいてくださり、どんなゴリアテにも立ち向かう力が与えられます。自分と敵との力量差ではなく、私たちのうちにおられる主と敵との力量差を見るべきです。主が共におられるゆえに、私たちは揺らぐことなく、勝利者として歩むことができるのです。





