メッセージ - 巨人と相対する時、サウル王の武具を不採用したダビデが採用したものとは?(第一サムエル17:38-40)水曜昼礼拝
巨人と相対する時、サウル王の武具を不採用したダビデが採用したものとは?(第一サムエル17:38-40)水曜昼礼拝
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- 執筆 :
- pastor 2026-1-28 14:30
巨人と相対する時、サウル王の武具を不採用したダビデが採用したものとは?(第一サムエル17:38-40)水曜昼礼拝
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【概要】
世の常識や成功方法に縛られ身動きが取れなくなる私たちのように、ダビデもまた、彼の上司・サウル王から着せられた最上の装備に苦悩する。 この窮屈な鎧を脱ぎ捨て、真の勝利への道を見つけられるのか? 彼の決断が、神の民の40日間の屈辱の日々に終止符を打つ!
【聖書箇所】
第一サムエル17:38-40
【励ましの言葉】
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神様はお一人お一人に賜物と得意分野を与えておられます
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主との親密な交わりによって、世の強者をも打ち負かす武器を身に帯びることができます
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日々御言葉と御霊の流れに浸されることで、主に用いられる滑らかな石となることができます
【勧めの言葉】
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世の方法に窮屈さを感じるなら、一旦それを脱ぎ捨てて主に向かう時です
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いつも主との交わりを持ち続けましょう
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御霊の声に敏感になり、御言葉に敏感になりましょう
【戒めの言葉】
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世の常識や手段に縛られて、神の国の働きで身動きが取れなくなってはいけません
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一度のバプテスマだけでなく、毎日毎日御言葉の水に浸し込まれる必要があります
【***AIによる文字起こし***】
今日、恵みをいただく御言葉は、第一サムエル記17章38節から40節です。最初に38節を一緒に宣言しましょう。
「サウルはダビデに自分の鎧兜をつけさせた。頭には青銅の兜をかぶらせ、身には鎧をつけさせた。」(第一サムエル17:38)
この第一サムエル記からとても恵みをいただきます。ダビデのところで、いよいよゴリアテと戦う段階になるのですが、サウル王は、これから戦うダビデに自分の鎧や兜を身につけさせるのです。
先ほど賛美しましたね。「我らの鎧は鉄でなく、我らの剣は主の福音、真実の平和を身に帯びて」と。でもサウル王の鎧を身に帯びて戦いに進み出るとなると、どうしても似合わないところがあるんです。
神の民、神のしもべというものは、この世の王様のそういう鎧、剣、それでもって戦い、霊的な戦いに進み出ようとすると、これは似合わないんですね。サウル王の鎧兜は、さぞかしイスラエルの中で一番立派な見栄えが良く、また性能が良いものだったでしょう。ダビデはそれを身につけさせられました。
39節を見ますと、「ダビデはその鎧の上に剣を帯びて、思い切って歩いてみた。慣れていなかったからである。」とあります。もう思い切ってしか歩けないんですね。歩くにしても思い切って、進むにしても思い切って。サウルの鎧を身につけていると、そういう風になってしまいました。
私たちも何かと、世の中の上等な方法、方策、世の中の王様がやるかのような、そういうビジネス手段だとか、あるいは学習方法だとか、それを身につけさせられて、「これ大切だよ」って言って身につけさせられて、でもそれを身につけさせると、思い切って出なければ歩きもしないということがあります。
仕事の手段で「やりなさい」って会社の上司から言われて、それで思い切って出なければできない。残業してもいないのに、通常の仕事で終わる時間なのに、その時間をしていると、もうただそれだけで疲れてしまうということがあるんですけども、これは神様が皆さんお一人お一人に与えてくださったタラント、賜物、得意分野、そして本当にこの神様が「しなさい」と言われる方法が本来あるにもかかわらず、それをさておきして、世の中の方法に自分を当てはめ込ませるとなると、こういう窮屈な思い、思い切ってしか歩けなくなってしまうんですね。
ダビデはそれでさらに言うんですね。「こんなものをつけては歩くこともできません。慣れていないからです。」そしてダビデはそれを脱いだとあります。ダビデはなんと、王様から賜ったこの最上の極上の鎧や剣を、「こんなものつけては歩けません」と言って脱ぎ捨ててしまった。王様から賜ったものを、なかなかできることではないかもしれないですけども、けれども、はっきりと彼は、いともあっさりとやってのけました。
皆さんもいつもあっさりやってのけると、意外と楽になって、もっと物事がスムーズに進むかもしれないですね。
このサウル王としては、常識的にこの戦いは剣や鎧による戦いだというふうに思っておりました。だから40日も罵られっぱなしだったんですね。この戦いを剣や鎧による戦いだと思っていたら、当然「勝てない、勝てない、どうしよう、どうしよう」って言って、先に進めなくなってしまうんです。
けれどもダビデは、それを慣れていないということがわかると、それを躊躇なく脱ぎ捨てました。たとえそれが王様の方法、王様の大切なものであろうとも躊躇なくやりました。
この私たちの戦い、ダビデの思っていた戦い、これは自分が立派な鎧を身につけて剣でということをダビデは思っていなかったことでしょう。そもそもそんなものを身につけたことが今まで一度もなかったし、人間の戦い、戦争というものを一度も経験したことがなかったからですね。
ダビデは普段、何によって羊飼いの野において過ごしていたか。彼はいつも主との親密な交わりによって羊飼いの野で過ごしておりました。彼は何によってライオンとか熊とか、普通の大人でも倒せないような強い敵を打ち倒すことができたか。それは、彼が普段から、この羊を大切に思って、神様を大切に思って、普段から神様との親密な交わりをしていたからです。だから、ライオンとか熊をも打ち倒すことができたんです。
ダビデの方法で、剣や鎧によってでなく、この主との交わりによって。まさにさっき賛美しましたね。「我らの戦い、血によらず、我らの戦い、霊による。我らの鎧は鉄でなく、我らの剣は主の福音。」本当にこの主との交わりの中において、世の強者、獣のような相手をも打ち負かす、この武器を身に帯びるんです。それは鉄ではありません。鎧兜でもありません。ただ、主ご自身がその都度その都度、「このようにしなさい」と教えてくれるんです。
ある時は、あのライオンを密かに追いかけなさい。あるいはある時は、今この瞬間に伏せて、ナイフをこういうふうに差し出しなさい。そういうふうに、主がその御霊に従って歩んでいるのであるならば、その都度、主が導いてくださるんです。
このゴリアテの戦いにおいても、主は、この瞬間、石を投げるという、その術をダビデに教えておられて、そしてダビデは、本当に勝手に体が動いたことでしょうね。だってゴリアテの、こんな鎧、兜、青銅の鎧、ここに隙間があって、そこにピンポイントで、動くゴリアテに石を投げる。これ、本当に神業ですね。その通り、神業だったんです。神様の業です。
いつでも主との交わりを持っているのであるならば、世の押し着せてくるもろもろ、それによって何かをしようとする、そうした仕事手順以上の、はるかに上回る勝ち方を、単独でぶっちぎりですることができるんです。いつも主との交わりを持っていましょう。アーメン。
本当に結局、神様の働きは、私たちがしようしようと思う、良い心があるかもしれなくても、それでもどうしても頭の中に世の中の常識、世の中の手段、王様的な方法に縛られて、結局いざ神の国の働きをしようとしても、身動きができなくなってしまうということが起こりがちであるとするならば、それは皆さん、「これが最善だから」「みんながこの方法をやってるから」「みんなはこの方法で成功しているから」「これ、上司が勧めた最善のやり方だから」、そういう、サウルの鎧の押し着せによって、もし窮屈だ、神の国のやり方が今まで今もってうまく進まないという、身動きが取れなくなってしまってるなと感じるのであるならば、一旦それを脱ぎ捨てて主に向かう時が来ております。
「主よ、今何かこのやり方に窮屈を感じております。これ一体何なんでしょうか。主よ、あなたが方向を示してください。あなたがしるしを示してください。」そういうふうに立ち止まって祈るべき時です。
ダビデはこの時、どうしたか。ダビデはこの鎧兜を脱ぎ捨てて、彼は、神様と一緒にいたあの羊飼いの野において、彼が普段用いていたものを持ってくるんですね。神様と一緒に過ごしていた、その一番自分に霊的にしっくりくるもの。ダビデにとっては、それは羊飼いの道具でした。
第一サムエル17:40「ダビデは自分の杖を手に取り、川から五つの滑らかな石を選んできて、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にしてあのペリシテ人に近づいた。」
ダビデは、サウルの鎧、剣兜、これを不採用通知を出して、その代わりに採用したものが、この羊飼いの道具だったんですね。本当に羊の命を守るための道具、羊をリードする道具、羊を救い出すための道具、これがダビデにとっての一番のしっくりするものだったんです。
この石、川から拾ってきたとあります。川から拾ってきた石というものは、川の流れに流されて、角が取れて、丸くなっています。こういうふうになるためには、1日2日でできることではありません。毎日毎日、この川の流れの中で流されて、川の中に浸し込まれ、ぶつかり削られ、とんがったところが削り取られて、そしてすべすべになったものです。
皆さんも主から用いられやすい人というのは、この川の石のようになった人です。すなわち、もう高ぶった高慢なとんがったところが削り取られて、また本当に自分の中にすぐにへこまされるような、そういう卑屈な、そういう凹みが、それも取れて、高い山が削り取られて、またそういう谷もそれも埋められて、そうして整えられた石のような皆さんが神様によく用いられるようになるんです。
第一ペテロに、「あなた方も生ける石として、御前に用いられなさい。」とあります。生ける石、すなわち皆さんも本当にこの御言葉の水の中に浸され続けて、御言葉の洗いで清められて。バプテスマというものは確かに浸し込むという、水の中に浸し込む、そういうものですけども、しかし、一度水に入って出てきたら、もうそれで終わりじゃないんですね。それじゃまだ角は取れておりません。
毎日毎日御言葉の水に浸し込まれて、そしてとんがったところが取られて、また聖霊の川の流れの中で聖霊に浸し込まれて、聖霊の川の流れを読み込み、そして御霊の思いを知り、そのようにして高ぶったところが除かれ、また本当に「私なんてもうどうせ」っていう、そういう卑屈なところも埋められて、そのようにして初めてこの神様の手にぴったりと収まって、そしてこの世の中のゴリアテを打ち倒すために用いられる、生ける石になっていくことができるんです。
【結論】
今、皆さん、世の中において何か重くのしかかって窮屈な様、そういう気持ちに何かあるとするならば、それが果たして神様からのものなのか、それとも世からのものかを今一度吟味する必要があります。
ダビデはもう一瞬で「こんなのじゃ身動き取れません」って言いました。本当に日ごと彼は御言葉に触れて、神様を賛美して、御霊の流れをよく察知してっていうことだったから、本当に「あ、これは御霊の方法ではないな」ってすぐに察知したら、もうそういう世の中の方法を脱ぎ捨てました。たとえ彼の上司、王様のもう上等な鎧兜であったとしても、彼はすぐに不採用しました。
そして本当に今一度、神様との親しい交わりの中で用いていた羊飼いの道具、それをダビデが持ってきて、そして本当にこの角が削られた石を持ってきました。それを採用しました。
皆さんも本当に御霊の水の流れに浸し込まれる日々を送りましょう。このような感覚は本当に毎日毎日が重要です。1日だけというものではないんです。毎日、この御言葉の水に浸され、御霊の流れに浸され、そして皆さん自身がどんどん角が取れ、谷が埋められ、主に用いられる滑らかな石となって、そして今この時代、本当に福音を阻んでいるゴリアテを打ち倒しましょう。
そして、その中に囚われている人、多くの魂たち、若者たち、子どもたちを救い出して、そしてこの時代において栄光のダビデ世代を育て上げていく皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン。





