メッセージ - 五つのパンと二匹の魚:人の国では1人分。神の国では5千人分!(ルカ9:10-17) 早天祈祷会 2026年2月18日(Wed)
五つのパンと二匹の魚:人の国では1人分。神の国では5千人分!(ルカ9:10-17) 早天祈祷会 2026年2月18日(Wed)
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- 執筆 :
- pastor 2026-2-18 6:46
五つのパンと二匹の魚:人の国では1人分。神の国では5千人分!(ルカ9:10-17) 早天祈祷会 2026年2月18日(Wed)
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【概要】
目の前には行き倒れになる危険がある5千人の群衆。手元にはわずか五つのパンと二匹の魚…!
しかし、持っている僅かなもの全てを主に差し出す時、人の限界をはるかに超える神の王国が到来する!
あなたは人の王国の限界内で生きるか、それとも神の国の無限の担い手となるか?
【聖書箇所】
ルカ9:10-17
【励ましの言葉】
神の国は不足から始まるのではなく、私たちがまず差し出すところから始まります。イエス様の手から渡された恵みを流し出せば、必ず人々は満足します。
【勧めの言葉】
神の国に積極的に参加しましょう。観客席ではなく、フィールドに出て神の働きに参与する者となりましょう。自分のタラントを地面に埋めず、活用していくことが求められています。
【AIによる文字起こし】
今朝、恵みをいただく御言葉は、ルカによる福音書の9章10節から17節です。では、初めに10節と11節を一緒に読みましょう。
「さて、使徒たちは帰ってきて、自分たちのしてきたことを報告した。それから、イエスは彼らを連れてベツサイダという町へ密かに退かれた。ところが、多くの群衆がこれを知ってついてきた。それでイエスは喜んで彼らを迎え、神の国のことを話し、また、癒しの必要な人たちをお癒しになった。」
今日で4回目になりますが、主日からずっと5000人への給食の場面を、四つの福音書の並行箇所から学んでいます。主日はヨハネ、月曜日はマタイ、昨日はマルコ、そして今朝はルカによる福音書からです。イエス様がわずか五つのパンと二匹の魚を持って5000人以上を養ったその場面を、四つの方向から見ることになります。
ルカの福音書はお医者さんであるルカが書いたもので、理系的な思考の持ち主です。本当に他の福音書にはない観点を持って、具体的なところを詳しく記しています。
ルカの福音書独特なところで、まず10節では「使徒たちは帰ってきて、自分たちのしてきたことを報告した」と書いてあります。他の箇所にはこの部分がありません。弟子たちは行った先々でイエス様の言われた通りになったこと、すべての必要が満たされたこと、イエス様の御名を用いれば悪霊が追い出され、病が癒されたことを、喜びの報告として次々と伝えたことでしょう。
そして弟子たちは働いてきましたから、疲れてもいました。ですから、イエス様は彼らを連れてベツサイダという町へ密かに退かれました。ベツサイダという町、具体的な町の名前が出てきます。これは「漁師の家」あるいは「食物の家」という意味です。ですから、この漁師たち、人間を取る漁師たちが養いを受けるところ、食物が満ち溢れたところです。そこに密かに退かれました。これは彼らだけで行って休むためでした。
けれども11節、「ところが多くの群衆がこれを知ってついてきた」とあります。それに対してイエス様は、昨日のマルコの箇所では、羊飼いのいない羊のような有様を見て深く哀れんだと書いてありました。そして今日のルカの箇所においては「喜んで彼らを迎え」とあります。
本当になぜ喜んで彼らを迎えたのでしょうか。イエス様も喜ばれるのです。本当に私たちは、時には羊飼いのいない羊のようにさまよい、何をしたらいいのかわからない。周りに獣が牙をむいてきそうな、自分の力ではどうしようもないような、そういう時にイエス様を頼っていく。そういう羊たちがイエス様のところに来る様、しかも5000人以上です。この様を見て、イエス様は喜ばれるのです。
私たちは時に働きに疲れて、ああ休みたいな、ようやくここで休めると思ったら、電話がかかってきて、また仕事に行かなければいけない。ああ、またかと思うかもしれません。しかしイエス様は、本当にこの疲れて行き場を失っている羊が自分のところに頼ってくる、そういう場面においては、いついかなる時も喜んで迎えてくださるのです。また私たち主の働き人も、本当にそのようにイエス様の性質を身に帯びるべきなのです。
イエス様はここで「喜んで彼らを迎え、神の国のことを話し」と書いてあります。これはルカ独特です。神の国のことを話した、と書いてあります。まず神の国を語られること、これがイエス様のなさることです。奇跡よりもまず前に、その前に、またパン、体の必要よりももっと前に、まず神の国のことをイエス様はなさるのです。「神の国とその義をまず第一に求めなさい」と書いてありますね。
私たちも同じです。イエス様に対して用事があるのは、パンが満たされることだけ。パンの必要が来たら、やっとイエス様のもとに行って、パンの必要が満たされて満腹したら「ああ、ありがとう」と言って、イエス様のもとを去っている。また自分の好き勝手をする。ここには神の国はないですね、皆さん。
神の国、今日の重要なキーワードです。神の国、ギリシャ語原典から見ますと、これは神様の支配領域ということです。あの国、この国、いろんな国がありますけれども、しかしこの神の国という時には、そこがどの国、あの国であったとしても、そこが神の支配領域であるとするならば、そこが神の国です。神の国、それは神様が支配するところで、ここも神の御国になれば、もう本当にそこかしこ、そこが神様の支配の領域になる。皆さんが神様に支配されているとするならば、皆さんが行く先々が神の国になります。
あるお家では、あの旦那さんが支配する国になっているかもしれません。あるところではそうじゃなく、奥さんが支配する国になっているかもしれませんが、けれども、その人その人が神様の支配下にあるならば、そこが神の国になるのです。
ですから、まずパンの必要とか、あるいは何か奇跡的なことが起こることを期待するといったよりも、まず神の国、神の支配が及ぶことをまず求めなくてはならないです。なぜなら、人が支配する国では、五つのパンと二匹の魚は、これは一人以上養えない、満ち足りないです。人の支配する国では、五つのパンと二匹の魚しか手元にない。目の前5000人いるとすれば、もうどうぞ群衆たちお帰りください、それぞれで食べ物を調達してください。これが人の国ですけども、神の国とは五つのパンと二匹の魚でもって5000人以上が満ち足りて、なおかつ働き人の分の籠もいっぱいに満ち溢れる。それが神の国なんです。だから人の支配を捨てて、神の支配、神の国をまず第一に求めなさいということが、ここにおいてルカの福音書においては語られているのです。
イエス様がこの人々の御前に立って、群衆たちに神の国のことを教えられた。そして、その瞬間、そこがもうすでに神の国となっていきました。「癒しの必要な人たちをお癒しになった」とも書いてあります。ですから、癒しの業が起こるのです。癒されなくてはならない人がイエス様のもとに癒しを求めて走っていたからです。
病気の子供を抱えたお母さんがそこにいたことでしょう。その子供を癒してください。イエス様は癒してくださったことでしょう。また病気を持った人、もう本当にこの寂しいベツサイダにわざわざ歩いていくことは大変だったことでしょう。そんな彼が、イエス様のことを見つめたら、イエス様の方がこちらを見つめているのです。イエス様は癒しが必要な人をご存知です。イエス様の眼差しを彼は感じて、イエス様のもとに引き寄せられていったことでしょう。そしてイエス様が癒してくださったことでしょう。
イエス様は皆さんのことも見つめておられます。皆さんをあのこと、このことから解放したい。癒してあげたい。罪を清めてあげたい。それがイエス様のまなざしです。皆さんはイエス様の御前において、本当に自分自身を差し出す。そして神の国が、その支配権が及ぶことをまず大事に皆さんが求めて、そして癒しをいただき、必要の満たしをいただく。そのことがここにおいて成立するのです。
このイエス様が夕暮れまでずっとこの神の国のことを語り、また人々を癒し、その業を行っていきました。でも弟子たちは、このイエス様の神の国のことに目を留めていたのですが、空を見てみると、もう夕暮れが迫っています。日が傾いています。夕日の影が伸びてきています。すると弟子たち、不安になってきたんです。不安の心が広がり、また空腹のお腹がググっとなってくるんです。
で、それで12節見ますと、「12人が御もとに来て、『この群衆を解散させてください。そして、周りの村や部落に行って宿を取らせ、何か食べることができるようにさせてください。私たちはこんな人里離れたところにいるのですから』」。まあ、もっともなところです。けれども、このこんな寂しいところ、この群衆たちを解散させて、もう5000人、男子だけでも5000人、女性も合わせれば1万人ぐらい。そんな群衆を、まあ各自がそれぞれの村や部落に行って宿を取らせてください。何か食べることができればいい。
弟子たち、なんとなく、ちょっとそれ無理なんじゃないか、こんな辺鄙なところで、それでこんな人数、宿ね、一気にこんな1万人も収容する宿なんて、果たしてあるんだろうか。まあないだろうな、というところがあったかもしれません。とにかく人間の力ね。神の国ではなく、人の国ではそんなもんなんです。神の国が支配する国に対して、人間の支配する国というものは、どうしても不足をきたらせ、不足を数え、そして人間的な思考で、この五つのパンと二匹の魚しかないとするならば、それを1万で割れば、一人頭ね、ほんの小さなパンくずぐらいしか、何ミクロンしか一人頭ないみたいな、なんかそんな風になってしまうんですけど、そこは人の考え、神の国の考えは違います。
神の国の考えは計算ではなく、イエス様に持っていくところから始まるんです。イエス様に持って行けば、そしてイエス様にお与えすれば、イエス様の支配、神の国がそこに広がっていくんです。神の国はですからね、足りるから始まるということではなく、まず差し出すことから始まるんです。
もう一度言いますと、神の国は皆さんの側が差し出すところから始まります。なんか受け取って満ち足りたから始める。これ、人間の国です。人間の国は自分の手元にあるもので何か始めようとしますし、手元にないんだったら、神様に求めるんではなく、人に求め、人に追求し、人から奪い、かき集めて、そこから始める。これが人間の国。けれども、神の国はまず皆さん自身から差し出すところから始まるのです。
「あなた方が与えなさい」。イエス様がおっしゃいます。13節で「イエスは彼らに言われた。『あなた方で何か食べるものをあげなさい』」。イエス様は、この弟子たちが解散させてくださいというのに対して、イエス様は「あなた方で」、無茶ぶりのように聞こえますけども、「あなた方で何か食べるものをあげなさい」。これね、チャレンジです。
神の国は皆さん、弟子がまずそこに参与する世界です。参政党っていう党がありますね。参加する政治の党。皆さんも神の国の政治に参加する。そこから神の国が始まるんです。神の国は、あの傍観者の国ではありません。神の国は観客席の側のものではなく、この観客席ではなく、グラウンドに出て、そのフィールドに立って、神の政治に積極的に参加するところから始まるのが神の国です。まず皆さん側が差し出すところから始まります。そしたら皆さん一人一人のその差し出したところから神の支配が始まっていくんです。
神の国は、自分がもう装備が十分整ったから、さあ、いざ出陣ではなく、主が今行けと言われたら、装備はともかく、そして足を一歩踏み出すところから始まります。イエス様は「あなた方が行って与えなさい」とこの場面でおっしゃいました。これがまずイエス様の側の挑戦です。それに対して私たちは答えて参加するものです。
信仰者は観客席で育つものではなく、競技場に、フィールドに出て育つものです。積極的に働きに参加するものこそ、多くを実らせるんです。五タラントを預けられたら、その五タラントを活用しに行く。二タラントだったら二タラントを活用しに出ていく。一番良くないのは、タラントを地面の中に埋めて活用しない、参加しない。これが神の国において悪い怠惰なしもべだということになってしまうんです。
だから私たちは積極的にそれを活用して活用していけば、神の国がどんどんどんどん広がっていくんです。タラントのたとえでイエス様が話された時、タラントで活用して損失を出しましたなんてこと、一つもなかったです。必ず五タラント活用したら、五タラントもう余分に儲けました。損しましたはない。これが神の国です。皆さんが神の国のために行くならば、必ずそれが広がっていくんです。
で、そしたら、この人々を座らせなさいっていうふうにイエス様は言われました。14節では「それは男だけでおよそ5000人もいたからである。しかし、イエスは弟子たちに言われた。『人々を50人ぐらい組にして座らせなさい』」というふうに言いました。弟子たちはそのようにして全部を座らせたと書いてあります。座らせる、食事の体制を取らせることです。
で、ここで、組にしてということが語られました。他の福音書でも、この座らせる時に50人ぐらい、あるいは100人ぐらい、そういう組にして、まあ、いろんなグループに、まあ何人いる、各グループごとに人数は違いますけれども、それで組にして座らせる。これは何を意味するか。これはこの神の国というものは、共同体の中で、それが行われるということです。
共同体から離れて、離れて離れ離れになっては、このイエス様から割いていただく恵みを流し出していくこともできませんし、受け取ることもできないんです。必ずこのイエスキリストの集いの中で、これは行われるんです。まずはイエス様の手から、手にあるパンがイエス様の手で割かれました。で、そのパンが割かれたものは弟子の手に渡りました。弟子は受け取りました、イエス様から。で、イエス様から受け取ったパンを、さらに弟子たちはこの共同体の中に出て行って、そのイエス様からいただいた恵みを割いて、また配る。また配る。これは決して尽きないんです。
イエス様からいただいた恵みを共同体ごとに配り、そして共同体の中では人の手から人の手にまた渡っていって、そして人から人へと、手から手へと、この神の国は広がっていくものなんです。神の国の性質、それは人から人へと流れ出していくものです。いや、流し出していくものです。自然に流れていくものではない。人の側がこの参与をするんです。参政党、神の国の参政権を皆さん持っており、そしてそれに積極的に参加するべきなんです。
まあ、世の中の参政党は、あの人の政治が行われる党なんですけども、しかし、神の国は神の国の政治が行われるところであり、それは皆さんが積極的に参加してこそ初めて働きが行われるものです。参加しないならば何も起これません。参加してこそ起こっていくものです。そしてそれは弟子の手から人の手と、人の手からさらに人の手と、イエス様の恵み、イエス様のパン、これが流し出されていくものです。
16節見ますと、「するとイエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福して裂き、群衆に配るように弟子たちに与えられた」と書いてあります。人の手から人の手へと渡りました。イエス様が祝福してくださったもの、それがまず我ら主の働き人の手に渡り、それが世に渡っていく時、人々の間で奇跡が起こるんです。
17節、「人々は皆、食べて満腹した。そして余ったパン切れを取り集めると、12カゴあった。」アーメン。イエス様から手渡された恵みを主の働き人が割いて、それを手から手へと渡していく時、流し出していく時、人々は満腹するんです。
今、つくばみらいの地において働きを皆さんしていますね。準備をしていますけれども、そこの人々は満腹するんです。満足するんです。イエス様の手から渡されたものを皆さんが流し出せば、それを受け取った人々は満腹するんです。だから皆さん、不信仰に陥ってはなりません。果たしてこれ、人々が満足するんだろうか。いやいや、イエス様の手から渡されたものを人に渡せば、必ず人は満足するものなんです。
イエス様の手から渡された、これを果たしてこんなパンが裂かれた、こんな小さなもの、人の手に渡って、人からなんだ、こんな、なんか怒られたらどうしようかって、そんな不安があることは一切なし。神の国のものは人々に流れ出して満足させるものです。もし相手が満足しない、怒るってキーとなるとするならば、それは神の国の人ではなく、ああ、じゃああなたには神の国の恵みふさわしくなかったですね。じゃあ、他の人に渡します、になればいいんです。
私たちは本当にこのイエスキリストの恵み、これを人に流し出していくべきものです。神の国においては、誰かが持て余して、誰かが飢えるということないんです。共産圏の人々、誰かが持て余して、誰かが飢えるということが非常に顕著な、そういう国、国です。共産圏の国や一部の人が持て余して、他の人々大多数が飢えている。これが人の国です。神の国では、そういったことはありません。誰かがいっぱい持っていて、ある人々が飢えている、それではありません。神の国は不足で始まったものは、満ち足りて余りあっていっぱいになることで終結するものです。
人の国が、初めはいっぱいあったものが、どんどん人がそれを奪って奪ってパイを、それを得て、ある人は賄賂を持って、で、そして有効に進めて、で、賄賂を集める側がどんどん肥え太って、で、賄賂を差し出さなくてはならない側がどんどん痩せ細っていく。これが人の国。けれども、神の国はわずかな、五つのパンと二匹の魚しか、わずかしかなかったものが、増え広がって、増え広がって、満ち足りて終わる。これが神の国です。
今日、ルカの福音書の方からのこの箇所においては、皆さんにチャレンジが与えられています。皆さんは果たして参加型でしょうか、それとも見物型になるでしょうか。イエス様は「あなた方は与えなさい。あなた方が働きなさい」というふうに言っておられます。皆さんの今持っているパンは小さいかもしれないです。けれども主は言われます。あなたのそのパンをまず差し出しなさい。あなたの力は小さいかもしれないけれども、信仰を持って、この参加する時、皆さんのタラントは倍に倍に広がっていくものです。一番良くないのは、タラントを地面の中に埋めたままであるということでした。
神の国は誰かがやってくれる国ではありません。皆さんが、自分が参加するものです。皆さんが今日その一歩を踏み出して、参加して、どんどんと多くを稼いでいく皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン。
【結論】
神の国は、私たちがイエス様から受け取った恵みを積極的に人々に流し出していくところから始まります。観客席ではなく、フィールドに立って神の働きに参加する時、わずかなものでも神の祝福によって多くの人を満足させることができます。神の国とその義をまず第一に求め、自分のタラントを活用して、神の支配が及ぶ領域を広げていく者となりましょう。
