メッセージ - 主の働きをする者が通るべき通過儀礼:くちびるの清め(イザヤ6:1-8) 水曜昼礼拝

主の働きをする者が通るべき通過儀礼:くちびるの清め(イザヤ6:1-8) 水曜昼礼拝

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pastor 2026-2-18 16:50

主の働きをする者が通るべき通過儀礼:くちびるの清め(イザヤ6:1-8) 水曜昼礼拝

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【概要】

預言者イザヤが神殿で主の聖なる臨在に触れ、自らの唇の汚れを示され、祭壇の炭火によって清められた後、主の召命に応答して「私を遣わしてください」と宣言するまでの過程を通して、主に仕える者に求められる清さと備えについて学びます。

【聖書箇所】

イザヤ6:1-8

【悔い改めの促しの言葉】

私たちの唇は汚れています。預言者イザヤでさえも、聖なる主の御前で「私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる」と絶望しました。私たちは自分の唇の汚れを認め、主の清めを求める必要があります。

【励ましの言葉】

祭壇の炭火、すなわち十字架で私たちの身代わりとなられたイエス様が、私たちの唇に触れてくださるなら、私たちの不義は取り去られ、罪も贖われます。御言葉を宣言する唇となるとき、主は私たちを清め、用いてくださいます。

【勧めの言葉】

御言葉を口ずさみましょう。声に出して宣言しましょう。黙読や思い巡らすだけでは唇は用いられません。口から御言葉を宣言してこそ、私たちは清められ、主の働き人として遣わされるのです。

【AIによる文字起こし】

今日、恵みをいただく御言葉はイザヤ書6章1節から8節です。初めに8節を皆さんで宣言しました。

「私は、誰を遣わそう、誰が我々のために行くだろうと言っておられる主の声を聞いたので言った。ここに私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ6:8)

私たちはここにおります。主よ、私を遣わしてくださいと願い求める者ではありますが、しかし本当にこの遣わされるにふさわしい者が世の中において乏しいことを主は見ておられます。主よ、私たちも祭壇の炭火を持ってこの唇を清め、罪咎が清められ、そして主の御前において遣わされるにふさわしい者として整えてくださいますように。

主は本当にこの全世界に目をあまねく見渡しておられて、そして本当に人を救いたい、救いたい、私のために行ってくれる働き人は誰だろうかと見ておられます。

このイザヤ書6章は、預言者イザヤが改めて主からの召しをいただいた、証明をいただいた箇所なんですね。彼は6章になる前、確かに主の預言者として働きはしていました。けれども、改めて神様からこうもはっきりと明確に証明をいただいて、そして彼自身が「主よ、私を遣わしてください」とそのように主に申し上げたのは、ここが最初なんですね。

彼が神様から召し出される、そして彼自身がその証明を受ける、その時に一体何が起きたのか。また神様がこの主の働き人を遣わすにあたって、一体何が条件であるのか。私たちも本当につくばみらいの地に、また次代のために遣わされたいと願うんですが、では一体どのようなものが遣わされるに値する者であるのか、それを今日イザヤ書6章から見ていきたいと思います。

まず、この時代はどういう時代だったのか。1節の方を見ますと「ウジヤ王が死んだ年に」と書いてあります。当時は人々の心が神様から離れていた、そういう時代でした。神様が軽んじられ、また神殿が軽んじられ、主の宮、すなわち礼拝が軽んじられていた時代でした。

神殿というところ、主を礼拝するところが、いかに聖なる場所であるのか、このウジヤ王が体験した出来事から知ることができます。ウジヤ王という者、彼はもともと最初のうちは良い王様だったんですけども、しかし人生の後半、彼は高ぶって悪い王様になっていたということが歴代誌を見ればわかります。

彼は祭司ゼカリヤという祭司に指導を受けていた時がありました。あたかも父親であるかのように、この祭司ゼカリヤはウジヤ王を息子のようにして、神様にしっかりと従うんですよ、そしてこの神殿は軽んじられてはなりませんということを教えていました。その教えに従っていた間、彼の父親代わりの祭司が生きていた間は、本当にウジヤ王はしっかりと主に従っていたんですが、しかしやがてこのゼカリヤが死んで、そしてこの王様、どんどん栄えていきます。そして、そういうふうになっていくと、高ぶりが出てきてしまったんですね。

彼はこの祭司以外は入ってはならないとされているこの主の宮、神殿に入って、そしてこの祭壇の上に、彼自身でお香を焚こうとしたんですね。本来、この主の宮というところ、そこは神様から任命を受けた祭司しか入ってはならないはずのところ、ましてや香を焚くというこう聖なる行為、それは本当に主から特別に使命を受けた者でなくてはならないんですが、しかしウジヤは王として、その中に入って自分が直接神様とのそのやり取りをするんだということで入って香を焚こうとしました。

それを見た祭司たちが、このウジヤ王を止めるために彼の後に入っていって、そしてウジヤ王に注意をします。「王様、あなたはここに入ってはなりません。香を焚くのは祭司の務めであって、あなたはその任命を受けていないから、どうかお控えください」というふうに言うんですね。

その時、ウジヤ王はまだ打たれておりませんでした。ピンピンしていたんですけれども、しかしこの祭司の注意の言葉を聞いた途端、彼はこの心を強情にして怒って、そして無理やりに強引にお香を神様の前に焚こうとしたんですね。怒りの心を持って、無理やりに強引に。そしてその瞬間、その瞬間、ウジヤ王のこの額にツァラアトが、ライ病が現れたんです。

額、本当に自分の思い、これを成し遂げたいという思い、それがもう本当にここに出て、そしてまた頑なな思いがここに現れる。この額というところは、本当に聖書においては、そういう人のその思い、それが現れるところなんですけども、彼の強情な怒りが額に出た途端に、そこがツァラアトに侵されてしまいました。

神の御前において香を焚くという行為、また礼拝という行為、これはいかに聖なるものであるか、それが示されたところであり、そして人間のその熱心だとか、あるいは神様に自分が捧げるんだという、任命も受けていないにもかかわらず、この聖なる務めに立とうとする行為がいかに恐れ多い行動であるのか。

ふさわしくない者が主の御前にお香を焚いて、あの大祭司アロンの2人の息子でさえも、主の御前に間違った火を焚いた時に焼き殺されてしまいました。もう本当にふさわしくない心で主の御前に捧げるということが、いかに恐ろしいことか。

本来だったら、このウジヤ王、もう主の宮に入った途端に打たれてもおかしくなかったんですけれども、まだ打たれませんでした。最初から注意を受けた。その時もまだマシだったんですけども、しかし注意を受けて、その言葉がウジヤ王の耳に入った時に、彼は怒って自分の思いを無理やり遂げようとしたら、このツァラアトがその額に現れてしまいました。本当に主の憐れみがまた注がれていたんですね。注意を受けるんですね。そして注意を受けてもなお強引にこのしてはならないことをする。それでも命が打たれないでこのツァラアトが現れた。これは私たちに対する警告でもあります。

本当に主の御前にふさわしくない心で、この宮において、この主に礼拝を捧げるという一見なんか正しく見える行為、しかし主は心を見られるお方であり、またその人が果たしてそれにふさわしいかどうかを見られるお方です。私たちはですから、本当にこの主の働きをするにおいて、しっかりと自分自身を整えてね。ましてや人を怒り心でもって、この礼拝的な行為をするということ、これは本当にもってのほかなんですね。

私たちはウジヤ王のように怒り狂ったような、ふさわしくない、そういう心でもって主に仕えるということをしていないでしょうか。私たちはよくよく気をつけるべきです。

このウジヤ王が死んだ年に1節に書いてあるんですけども、その年に、主がいかにこの主の宮において、また主の臨在において、いかに聖なるお方であるのかを、主は幻を持ってイザヤに示してくださいました。

イザヤは高く上げられた王座に座しておられる主を見ました。「その裾は神殿に満ちていた」(イザヤ6:1)と1節に書いてあります。神殿というところ、主が住まわれるところだと思われるんですけども、しかし逆なんですね。この神殿さえも主の裾を収めることができないほどに、主は偉大な、偉大な、偉大なお方なんです。

「セラフィムがその上に立っていた。六つの翼があって、二つで顔を覆い、二つで両足を覆い、二つで飛んでおりました。そして互いに呼び交わしています。聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ」(イザヤ6:2-3)

この叫ぶ者の声の上に、この神殿の土台は揺れ動いて、この宮は主の栄光の臨在の煙で満たされました。主の宮、また礼拝するべきところ、これがいかに聖なるところであるのか。

ヘブライ思考において、繰り返しは本当に強調を表すんですが、しかし3回も、これ最高位の強調、主は聖なるお方だと強調されました。本当に私たちは、この聖なるお方の御前に、いかに態度を整え、身なりを整え、清められてでなくてはならないのか。

これに対して、イザヤは絶望します。「ああ、私はもうダメだ」って絶望するんですね。このイザヤが、この神様の聖なる有様に圧倒されて絶望した。その絶望の内容はどんな絶望内容だったかというと、彼、「私は唇が汚れた者で、そしてこの唇の汚れた民の間に住んでいる。しかもそんな私が万軍の神、主をこの目で見てしまった」(イザヤ6:5)これが絶望の内容でした。

この唇、これが本当に汚れているということが真っ先の絶望の内容でした。聖なる万軍の主。イザヤは預言者だったんですよ。神の言葉を預かって、そして人々に届けるという、唇がもう清いと思っていた預言者なんですけど、しかしそれ、そんなイザヤでさえも絶望するほどに、「あ、自分は本当にこの唇が汚れた者だったんだ」という、このことに打ちのめされました。

私たちも本当にこの唇がいかに汚れているか、主の働きをするにおいて、本当にこの唇、これに最も気をつけなくてはならないことが、ここにおいて示されております。

ヤコブ書において唇があって、この舌、本当に小さな器官です。本当にこんなちっこい唇の器官ではあるんですけども、しかし、この小さい器官が大事を言って、この人生という車輪を焼き尽くしてしまうということが書いてあります。本当に唇は火である。そして、その小さな火があの大きな森を燃やすというふうに書いてあります。

私たちはこの唇、本当に気をつけるべきです。軽率な言葉、また本当に軽々しく神の御前に立つこと。軽々しく、この唇から何か思いつきで言葉を発するようなことはあってはならないんですね。そしてこの唇、本当に自分の人生の車輪を焼き、また相手の人生を焼き尽くすようなことにもなりかねません。

これから本当に特に子供たちと関わっていく仕事になっていくんですけども、本当に子供、小さな言葉で傷つきやすい。そういうこともですね、私たちは。ですから、しっかりと今のうちにこの唇を見張って、そして唇が清められた状態で、この働きに出るべきであるんです。

この私たちの唇はどうやったら清められるのか。イザヤは清められます。

「すると私のもとにセラフィムの一人が飛んできたが、その手には祭壇の上から火ばさみで取った燃え盛る炭があった。彼は私の口に触れて言った。見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」(イザヤ6:6-7)

この口と火は非常に関連が深いんですね。ラザロと金持ちのお話、皆さんご存知ですね。ラザロ、このお金持ちの前でこの物乞いをしていたんですけど、しかし金持ちは一切彼に何の施しもしませんでした。やがて金持ちはハデスに落とされるんですね。そこはとても暑い暑いところです。そして、特に口が熱いんですね。彼の願いが、この口が、舌が冷やされるということ。もうせめて、もうほんの少しの水でもいいから、自分を、口を冷やしてほしいというほどに、そのハデスというところ、地獄は、口が特に苦しみを受けるところのようです。唇で罪を犯してきた。

本当にこの私たちは、そのことにおいても、ああ、本当に私たちのこの唇で災いを振りまくということはないようにということを私たちは知るべきですけれども、このイザヤは唇にこの祭壇の燃え盛る炭が当てられるんですね。この祭壇の炭火、イザヤの口に、この燃え盛る炭が当てられました。

普通、こんなもう真っ赤に燃えてる炭が皆さんの口に当てられたら、火傷どころの騒ぎじゃないですね。けれども、どうやらイザヤは、あの口が火傷をしないで、その後もしゃべることができたようです。一体これはどういうことでしょうか。

祭壇というところに注目するべきです。祭壇というところは、私たち人間の罪の身代わりに動物がほふられて焼かれる場所なんですね。私たちの身代わりとなった動物が焼かれているのがこの祭壇です。この祭壇ですから、イザヤの代わりに焼かれた動物です。今、この祭壇の中で焼かれている動物は、一体皆さんにとってどなたなのか。イエス様です。

イエス様が皆さんの身代わりになって、屠られて、祭壇で焼き尽くされて、そしてその祭壇で焼かれているイエス様が皆さんに触れるのであるならば、皆さんの口を通して、このイエス・キリストという御言葉が触れられるのであるならば、皆さんの咎は清められるんです。

7節を見ますと、じゃあ7節、皆さんで一緒に読みましょうか。

「彼は私の口に触れて言った。見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」(イザヤ6:7)

イエス様は皆さんの代わりに祭壇、十字架という祭壇において屠られ、焼き尽くされる思いで、イエス様は十字架の上で「私は渇く」と、本当に焼かれて焼かれて渇いて渇いて、その思いを皆さんの代わりにされました。

この十字架のイエス様に皆さんが触れるのであるならば、皆さんの不義が取り去られるんです。皆さんの唇は、いつもこの祭壇の炭で焼かれたイエス様を証しする唇であり、御言葉であるイエス様を宣言する唇であるべきなんです。するならば、皆さんがいかに唇が汚れた者であろうとも、いかに今までの人生、罪を重ねてきた者であろうとも、この皆さんの唇を通して御言葉を語り、御言葉を宣言し、またイエス様を褒め称え、賛美する唇であるのであるならば、皆さんの不義は取り去られ、皆さんの罪も贖われるんです。

ですから、私たち、本当にこの唇が清められる必要があるんです。そしてその後です。

イザヤ、主が語っておられる声を聞くんですね。8節なんですけども、8節、じゃあ8節、皆さんと一緒に宣言したいと思います。

「私は、誰を遣わそう、誰が我々のために行くだろうと言っておられる主の声を聞いたので言った。ここに私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ6:8)

イザヤはこの不義が取り除かれた、そして本当にこのもう恐れるな、あなたの罪は取り去られたということを聞いたので、この「私を遣わしてください」と言うことができるようになりました。

今日、皆さんに言いたいこと、皆さんは主からの証明があるでしょう。神様からこの仕事をしなさいという証明があるでしょう。その皆さんが一番気をつけるべきことは、唇の言葉です。そして本当にこの唇が汚れた民の間に住んでいるということをイザヤは絶望したんですけども、私たちもこの唇の汚れた人々の間から出て行くべきであり、そして本当に御言葉を語る唇の交わりの中に居続けるべきです。

そして、この唇を真に清められるお方が、祭壇の上に、十字架の上に捧げられたイエス様です。このイエス様ご自身、御言葉であるイエス様ご自身を皆さんの唇から語り出し、いつも暗唱によって唇から御言葉を宣言し、そして皆さんの思い、心が本当にこの御言葉によって清められた、清められてこそ、皆さんは世に出て行くことができ、主のために働くことができるんですね。

テフィリンインターナショナルアカデミーつくばみらいは、御言葉を宣言する者です。これから私たちは子供たちの口を通して、この十字架に捧げられたイエス様なる御言葉を子供たちの口を通して宣言させていく働きをしていきます。

まずは皆さん自身が御言葉を口ずさみましょう。唇を思い描くだけでは唇が用いられませんね。黙読するだけでも、あるいは御言葉を思い巡らすだけでも唇が通りません。皆さんの口から御言葉を宣言して、声に出して宣言してこそ、皆さんは清められ、また整えられるんです。

皆さんはまさにこの御言葉によって清められ、そして主の働き人として大いに大いに有用な者として、そして主から御声がかかった時、皆さんの唇からは「ここに私がおります。主よ、私を遣わしてください」その宣言をして、そして主から遣わされていく皆さんでありますように。

【結論】

主に仕える者として遣わされるために、私たちはまず自分の唇の汚れを認め、十字架で焼き尽くされたイエス様、すなわち御言葉によって清められる必要があります。祭壇の炭火は、私たちの身代わりとなって十字架で屠られたイエス・キリストを表しています。この御言葉であるイエス様を私たちの唇から宣言し、声に出して語り出すとき、私たちの不義は取り去られ、罪も贖われます。唇が清められた者だけが、主の「誰を遣わそう」という御声に「ここに私がおります。私を遣わしてください」と応答することができるのです。御言葉を暗唱し、宣言し続けることによって、私たちは主の働き人としてふさわしく整えられ、次世代のために、また世界のために遣わされていくのです。

 

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