メッセージ - 「できるものなら」という言葉の裏にあった不信仰(マルコ9:14-29) 早天祈祷会 2026年3月27日(Fri)
「できるものなら」という言葉の裏にあった不信仰(マルコ9:14-29) 早天祈祷会 2026年3月27日(Fri)
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- 執筆 :
- pastor 2026-3-27 18:30
「できるものなら」という言葉の裏にあった不信仰(マルコ9:14-29) 早天祈祷会 2026年3月27日(Fri)
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【概要】
イエス様が山から降りてこられると、弟子たちが悪霊を追い出せず律法学者と議論していた。イエス様は不信仰を嘆かれ、「信じる者にはどんなことでもできる」と宣言され、父親の「不信仰な私をお助けください」という祈りに応えて子どもを癒された。この種のものは祈りと断食によらなければ追い出せないと教えられた。
【聖書箇所】
マルコ9:14-29(特に9:23-24を宣言)
【励ましの言葉】
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イエス様は今も生きて働かれており、私たちの髪の毛の数まで数えておられる
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イエス様には全ての権威が与えられており、どんなことでもできる
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からし種ほどの信仰があれば、山も移る
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イエス様に話すならば、すべての問題が解決される
【戒めの言葉】
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不信仰はイエス様を我慢させてしまう
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問題が起きた時に議論するのではなく、すぐに祈るべき
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「できるものなら」という不信仰な祈りではなく、信仰を混ぜた祈りをすべき
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いらない言葉を口から出さず、口を覆うべき(断食の意味)
【勧めの言葉】
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何か困ったことが起きたら、すぐにイエス様の御名を呼ぶべき
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「イエス様、助けてください」と祈る習慣を身につける
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思案せずに何事もイエス様に話す
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祈りと断食によって霊的な戦いに臨む
【***詳細***】
今朝、私たちが恵みをいただく御言葉はマルコ9:14-29です。まず初めに皆さんと共に9:23-24を宣言します。
「するとイエスは言われた。できるものならと言うのか。信じる者にはどんなことでもできるのです。するとすぐにその子の父は叫んで言った。信じます。不信仰な私をお助けください。」
私たちこそ助けが必要な者です。不信仰な私たちを助けてください。主の御業を阻害しているものは何でしょうか。主の奇跡が起こらないことはなぜでしょうか。不信仰な私たちのゆえです。どうか私たちを助けてください。
素晴らしい主の御名をほめたたえ、賛美いたします。主は今も生きて働かれておられる主です。生きているんです。今、皆さんのことを見ておられます。知っておられます。皆さんの髪の毛の数も数えられておられます。それほど皆さんのことをよくご存知なのが主イエス様です。
この福音書の時代に生きておられたイエス様、そのイエス様が十字架の死を通して復活して、今や全世界、この日本の地においても、全世界どこにおいても、主を呼び求める者には助けを与えてくださる主です。本当にここ最近の私たちにとってのキーワードは、「イエス様、助けてください」ですね。
今まで私たちが何かとあれこれと何でもかんでもして、そして何か困ったことが起きても、なかなかイエス様を呼ばないで、それで自分であれこれしたり、あるいは時には誰が悪い、彼が悪いと問題をほったらかしといて、困った人がそこにいるにもかかわらず、そういう議論に陥って、結局問題がこじらされて、悪魔サタンが背後で高笑いしているような、そういう状況が多々あるんです。
今日開いた御言葉の箇所が、まさにそういう場面から始まります。イエス様はその前、高い山に登って、シモンペトロとヨハネとヤコブを連れて、そこでエリヤとモーセと会合しておりました。そこから降りてきた場面から始まります。
イエス様が降りてきたら、何か他の12弟子と律法学者たちが何か論じ合っていました。そこに周りに大勢の群衆が取り巻いている状況でした。イエス様が「一体何を議論しているのですか」と聞くと、その中の一人が答えます。
「先生、口をきけなくする霊に憑かれた私の息子を、先生のお弟子さんのところに連れてきたんですけども、けれども、このお弟子さんたちには、この霊を追い出すことができませんでした。」
イエス様はそれを聞いて、「ああ、不信仰な世代だ。いつまであなた方と一緒にいなければならないでしょう。いつまであなた方に我慢していなければならないのでしょう。その子、私のところに連れてきなさい」と言われました。
もし皆さんがイエス様から「いつまであなた方に我慢しなければならないのでしょうか」と言われるとするならば、それは不信仰なんです。皆さん、イエス様を我慢させてはならないんです。信じることによってイエス様を喜ばせることができる。イエス様が「ああ、不信仰な世代だ」と嘆くとするならば、皆さんが不信仰な状態になってしまう。イエス様を我慢させてしまうことになります。
ここにおいて、この弟子たちの有様、本当に問題がそこにあるのに、子どもが悪霊に取りつかれて、そして困っている父親が弟子たちのところに連れてきたけど、弟子たちに追い出すことができなかった。この問題が起こって、それで解決できなくて、それで議論が沸き起こって、ああだこうだして、そして大勢の群衆がそれを見つめて、「ああ、イエス様の弟子たち、大したことないんだな」そういうふうにして、イエス様の御名が貶められてしまっている。そういう状況です。
私たちはどうするべきであるのか、何をするべきであるのか。この当時、イエス様はまだ十字架を経験しておりません。昇天しておりませんでしたから、一人の肉体を持った人間として、イエス様はこの当時おりましたから、どこにでもいるというわけではありませんでした。
けれども、今この時代において、何か困ったことが起きたとするならば、すぐにイエス様の御名を呼んで、イエス様に来ていただくということが、今この時代はもうそれができる時代になりました。この当時は、すぐにイエス様を呼ぶということはできなかったかもしれませんけれども、少なくともイエス様の御名を預かった弟子たちです。このイエス様の御名によって、本当に祈りを持って、この対処できたはずなんですけど、しかし、祈ることをしないで論じ合うということをしてしまいました。
相手が議論を吹きかけてきたから、相手が悪いからという言い訳をしがちではあるんですけど、しかし、私たちは本当にすぐに祈る、すぐにイエス様を呼ぶということをするべきなんです。
この子どもがイエス様のところに連れてこられて、イエス様のところに来たその子ども、悪霊につかれております。その霊はすぐにその子どもを引きつけさせて、地面に倒れさせて泡をふかせ、転げ回らされました。イエス様はそれを見てすぐに癒すかと思いきや、イエス様はその子から目を離して、父親の方に向き直ります。
「この子がこんなになってからどのくらいになりますか」
イエス様はなぜすぐに癒さないんでしょう。イエス様はこの子どもから父親の方に向き直りました。子どもがもう悪霊に憑かれてひどい有様。すぐに癒すのではなく、なぜ父親の方に向いたのか。これはイエス様は見抜いていたんです。この子どもがこういう風になった、その問題は父親の方にあったんです。
父親は答えます。「幼い時からです。この霊は彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もしおできになるものなら、私たちを憐れんでお助けください。」
父親はこのイエス様の質問に対して、このように答えました。「ただ、もしおできになるものなら、私たちを憐れんでお助けください。」ここにこの父親の問題が浮き彫りにされたんです。「もしおできになるものなら」なんです。
イエス様、それに対して答えます。「できるものならというのか。信じる者にはどんなことでもできるのです。」
皆さん、「どんなことでもできる」と書いてありました。どういう者に対して?信じる者にはどんなことでもできるのです。イエス様を信じる者に対しては、イエス様がすべての、どんなことでもイエス様がしてくださるんです。
私たちは何もすることができない。唯一できること、それはイエス様に話す、イエス様を呼び求めることです。イエス様、助けてください。イエス様に祈るするならば、どんなことでもできるようになるんです。信じるならば。信じるならばです。
からし種ほどの信仰があるならば、この山に向かって「あそこに移れ」、あの木に向かって「海の中に入れ」と言えば移るというふうにイエス様はおっしゃいましたね。信じるならば、それもからし種ほど。どのくらいの大きさがからし種の大きさか。ボールペンでこの紙の先をチョンってついた、そんなチョンぐらいの大きさがからし種です。それぐらいの信仰がでもあれば、あの問題の山は「海に移れ」と言えば移るんです。
この不信仰、イエス様が本当に「ああ」って叫ばれたのは不信仰な世代だということでした。皆さんは信仰、これを持つべきです。イエス様にならどんなことでもできる。イエス様に話すならば、どんなことも取り除かれる。
先ほど484番賛美しましたね。「心に悶えあらばイエスに話せ。イエスに話せ。悲しみ、憂いあらばイエスに話せよ。イエスに話せ。良き友なるイエスに話せよ。思案せずに何事をもイエスに話せよ。」
どんなことでもイエスに話せって書いてあります。思案せずにイエスに話せと書いてあります。何か不安な物事、何か問題の物事起きたら、あれこれあれこれ、ああなんです、こうなんですって、人に話すよりもイエスに話すということをするべきなんです。そしてイエスに話して、イエス様が何か言われたらそれに聞く。こちらは黙ってそれに聞く。それをすればいいんです。
私たちはこのイエス様に話すということ、これをするべきです。イエス様にこの父親は話しました。問題が浮き彫りにされました。信じていなかったんです、この父親は。「もしおできになるものなら、私たちを憐れんでお助けください」。この言葉の中には信仰がありません。
もしあなたにできるんだったら、できない弟子たち、つまらないよね、役に立たない。イエス様、あなたにおできになるだったら、もしおできになるものなら、そういった感じがあって、信仰も何もないんです。イエスには何でもできるというこの信仰があるんでしたら、もっと、あの百人隊長のようにね、「あなたはお言葉をくださいすれば、しもべは治ります」って、そういった信仰を混ぜた言葉で、イエス様を信頼したその前提でイエス様に話しかけるんですけども、しかし、この父親は「できるものなら」ということでした。
皆さんのお祈りは、こういう「できるものなら」祈りになっていないでしょうか。イエス様には何でもできるという信仰を混ぜ込まないで、あれしてください、これしてください。その背後に「できるものなら」という不信仰が隠されていないでしょうか。
イエス様、あなたにはこれがおできになります。この問題を解決することがイエス様、あなたにおできになります。イエス様、あなたはこの病を癒すことがおできになります。そうです。イエス様は癒し主だから。そして福音書にもういくらでも病の癒しの事例は書いてありますので、イエス様にはおできになる。このイエス様、あなたにおできになりますから、私はあなたに願い求めます。イエス様、癒し主であり、イエス様、どうか私を癒してください。どうかこの問題を解決してください。イエスに話すんです。イエスに話す。思案せずに何事をもです。
イエス様は「できるものだというのか。信じる者にはどんなことでもできるのです」と言いますと、その父親は叫んで言いました。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
信じますと答えました。信じる。イエス様にはどんなことでもおできになるということを信じます。イエス様にはこの子を癒すことがおできになると信じます。イエス様、この悪霊を追い出すことができる。どんな霊的な問題をもイエス様には解決できるということを信じます。
イエス様はそうです。そういうお方です。イエス様は今や天においても地においても一切の権威が与えられました。この全権威が与えられたイエス様にお願いするならば、イエス様がすべて物事を動いてくださり、すべて最善な道へと導いてくださいます。
イエス様、ここにおいて群衆が駆けつけるのをご覧になると、汚れた霊を叱って言われます。もう群衆が駆けつけてきて、どんなことだろうかと野次馬的に駆けつけてきて、そして物事をもっと混乱させてしまう。その前にイエス様、この汚れた霊を叱って言われます。
「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。私がお前に命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな。」
父親は、この子どもに悪霊が入ってる、どんな霊かと言って、マルコ9:17を見ますと、父親は「口をきけなくする霊」というふうに言っております。父親は単に口をきけなくする霊、この子ども、口をきけなくさせている霊だっていうふうに言うんですけど、しかし25節でイエス様が言われたのは、「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊」というふうに言われました。見抜きました。この子、耳が聞こえないということを。父親は見抜いていなかったんです。
けれども、イエス様はこの子、耳を聞こえなくさせる霊によって、耳が聞こえなくさせられていた。だから、父親がどんなことを言っても、周りがどんなことを言っても、この子には通じないで、そしてこの火の中、水の中へとこの子を投げ込んでいってしまったんです。けれども、イエス様はそれを見抜きました。
さあ、皆さん、耳を聞こえない人に対して何か言っても耳は聞こえないですね。耳が。でもイエス様が言われた対象は、この耳を聞こえなくさせられた子どもに対して言ったんじゃなく、耳を聞こえなくさせる霊に対して言いました。霊に対しては有効なんです。耳を聞こえない人に対しては手書きでなんか書かなければ通じないですけども、しかし皆さんは霊に対しては宣言しております。
毎回祈祷会においては、この霊に対する、悪霊に対する「出て行け、地獄へ行け」という祈りをしております。人に対してしてるんじゃないんですよ。よくこの教会は怖いと、なんかそんな祈祷会を見た方から言われるんですけど、しかし私たちが叱りつけてるのは誰か人間ではなくて、霊に対してです。この時代をおかしくさせる霊、人をおかしくさせ、不幸に陥れる霊、そのような霊に向かって私たちもこの叱り祈り、そしてこのイエス様の業を、悪霊追い出しの業をしております。
けれども、私たちもただ単に口で宣言しただけでは霊は出て行かないということ、この事例のようにあります。私たちもまた祈りと断食を持ってでなくては、この種のものは出て行かないという、そういった種の霊もまたいるわけです。
イエス様はこの霊に向かって「この子から出て行け。二度とこの子に入るな」そういうふうに言うと、霊は叫び声をあげて、その子を激しく引きつけさせて出て行きました。人々は子どもが倒れて動かなくなったのを見て、この子は死んでしまったと多くの人々がそういうふうに言いました。
本当に人々というものは現象だけを見て、そして悪い方向に考えてということにありがちですけど、しかし、イエス様がその子の手を取って起こされると、その子は立ち上がりました。正常な子どもになりました。
イエス様はすべての問題を解決してくださる方です。人々がどんなマイナスなことを言ったとしても、現象がどんなに何か解決できなさそうになったとしても、このようなすべての問題を解決してくださるイエス様に話すのであるならば、イエス様が動いてくださいます。イエス様がすべての物事を良しとしてくださいます。
イエス様がその後、家に入られると、弟子たちが集まってくるんです。「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが」。するとイエス様は言われます。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」
この種のものは祈りによらなければ。日本語では祈りとしか書いてないんですけども、聖書の原典の方では、祈りと断食なんです。キングジェームズのバージョンでは、Prayer and Fastingって書いてあります。祈りと断食。祈り、本当に熱心に祈り求めるということ。イエスに話すということ。祈りはイエス様に話すことです。祈りはイエス様との会話です。このイエス様との会話なしにはその種の霊は出ていきません。
またそればかりじゃなく、断食。ヘブライ語の原典では、ツームって言うんですけども、ツームのもともとの意味は、口を覆うということです。口を覆う。そこから、食べる口、これを覆って食べない、そこから断食なんです。
それのみならずです。皆さん、本当にいらない言葉、本当にこの最初の場面はその群衆たちや弟子たちは本当に全く口で、もういらないことががわあわあ、「この子は死んでしまった」とか、「どうでしょうか」とか、「できるものなら」とか、そういういらない口を叩く者ですけど、本当にそうしたいらない口を覆うべきなんです。いらない口を語らす口。この私たちはですから、この唇はどのように用いるべきか。
まずイエスに話す祈り。祈り。二番目は断食、口を覆う。このいらない言葉を口から出さない。そしてなおかつ「イエス様、助けてください。イエス様、助けてください」祈るべきです。
今この時代はもうイエス様が十字架につけられ、よみがえられ、天に昇られた時代。いつでも、どこでも、どんな時でも、どんな案件でも、イエスに話して、イエス様に祈ったら、生きておられるイエス様が生きて働かれ、そして皆さんの代わりに動いてくださる、そのような時代です。どこでもいつでもそれができます。イエス様に話しましょう。あの問題、この問題、イエス様に話しましょう。
心に問題がありましたら、イエス様に話して、そしてすべてイエス様に取り扱っていただいて、すっきりして、そして本当にこの時代において、どんな時においても、どんなことにおいても、イエスに話し、幸いを得ていく皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福いたします。
イエス様、あなたが今のこの時代も生きて働かれる主であらゆることを感謝いたします。イエス様にあの問題、この問題を話します。イエス様、今この時代、特に幼子、子どもたちが本当に育ちづらい、健全に育ちづらい時代です。会堂の中において、子どもたちが本当に母親の腕の中において息も絶え絶えに「パンとぶどう酒はどこにありますか」とそのように叫んでいる時代。パンとぶどう酒、それは礼拝において主に捧げるべきもの。本当にこの時代、主に捧げるべき礼拝は一体どこですかと幼子たちが息も絶え絶えに叫んでいる、そういう時代です。
主よ、あなたが動いてください。イエス様、助けてください。イエス様、私たちがなすべき務め、教えてください。本当にこの時代において、子どもたちをあなたのもとに引き寄せる、その働きをしている働き人たち、お一人お一人に力を与えてください。どうか今、私たち自身も本当に「イエス様、助けてください」と祈るたしなみをしっかりと身につけて、からし種ほどの信仰でもあなたに助けることができますように。どうか助けてください。
あなたが本当に私たちの呼び声に応えてください。祈りに応え、助けてくださるお方であることを感謝いたします。
【結論】
信じる者にはどんなことでもできる。イエス様には全ての権威が与えられており、どんな問題も解決できる方である。私たちは「イエス様、助けてください」とすぐに祈り、イエス様に話すことを習慣にすべきである。「できるものなら」という不信仰ではなく、「イエス様にはおできになります」という信仰を持って祈る時、イエス様が動いてくださる。この種のものは祈りと断食によらなければ追い出せない。いらない言葉を口から出さず(断食=口を覆う)、ただイエス様に話し続けることで、すべての問題が解決される。今の時代、いつでもどこでもイエス様を呼び求めることができる恵みの時代に生きていることを感謝し、どんな時もイエス様に話して幸いを得ていく者となろう。
