メッセージ - とげのついた棒(使徒26:1-11)
礼拝説教メッセージ音声:とげのついた棒(使徒26:1-11):右クリックで保存
韓国語通訳有
パウロがイエス様と出会った体験は使徒行伝中に3回登場するが「とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」と言ったのは、このアグリッパ王の前での証のみである。
彼は、主があの時言われた言葉には、実はあの意味も含まれていたのか、と、何十年もかけて徐々に知って行ったのである。
御言葉とは、人が何十年も、あるいは何百年もの世代に渡って、やっと悟って行く程に奥が深い。
パウロはキリスト者達を迫害していたあの時、確かに、痛かったのである。
ステファノが殉教する直前のあの聖なる趣、石を投げている者達にさえ執り成す愛を見、また、牢にぶち込むキリスト者達の無垢な様を見る度に、主キリストの聖さ、罪の無さ、愛の深さを垣間見て、彼らを迫害する度に、痛みを感じていたのだ。
「とげの付いた棒」とは、ある用途を持った道具で、くびきに慣れない若い牛は最初、くびきを嫌がって足で蹴るのだが、牛が蹴ると、とげのついた棒がそのまま自分の体に食い込んで痛い目に遭う仕組みに出来ている。
牛はくびきに逆らう事を次第に止め、くびきに慣れて行き、最後にはくびきに安息を見出すようになって行くのだ。
私達にもくびきに繋がれた牛のような体験はあったかもしれないし、今まさに遭っているかもしれない。
最初は主の導かれる道、主が負わせる重荷を嫌がり、逆らうのだが、逆らえば逆らうほど痛い目に遭い、ついには主の御心に屈服して行き、そして主の負わせるくびきに真に安息を覚えて行くようになる。
『疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」』(マタイ11:30)
「わたしの軛は負いやすく」は英語のある聖書では「comfortable」とあり、主のくびきは、私達にとって負い易く心地の良いものである。
くびきは一見、自分の行きたい道へ行けず、不自由に見えるかもしれない。
そしてそれに逆らうと、痛みを覚え、不愉快極まりなく思えるかもしれない。
しかし、私達の成り立ちを知り、最善をご存知である主が負わせて下さったくびきに歩んでいるなら、心に平安があり、心地よく、最善の道へと導かれていくのである。
主が負わせて下さったくびきを負って主と共に歩き、安らかに導かれていく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!