メッセージ - 約束の地に入れる者 (民数記13章)
礼拝説教メッセージ音声:約束の地に入れる者 (民数記13章)
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主が私達に用意して下さった約束の良き相続地を、私達が得るための法則は実はシンプルだが、そのシンプルな事を人はいかにややこしく難しく考えてしまうか。
出エジプトの民が約束の地に入れず荒野で40年さ迷う事が決定的となってしまった事件から見てみたい。
「見よ。あなたの神、主は、この地をあなたの手に渡されている。上れ。占領せよ。あなたの父祖の神、主があなたに告げられたとおりに。恐れてはならない。おののいてはならない。」(申命記1:21)
この言葉の通りそのまま攻め上っていれば、神様が約束された良き地をすぐにでも自分のものとしたはずだったが、民は余計な要望をしてしまい(22節)まず斥候を遣わして探らせて欲しいと、モーセに進言した。
モーセにとってその進言は良いと見えた(23節)し、ヨシュアやカレブも行き巡って見た時、こんなにすばらしく良い土地が与えられるのかと心躍ったが、荒野で屍を晒す事になる民には、そうではなかった。
彼らは立ちはだかっている城壁や強そうな先住民、それに比べた自分自身を見たのだ。(民数記13:31)
「そこで我々が見たのは、ネフィリムなのだ。アナク人はネフィリムの出なのだ。我々は、自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたにちがいない。」(民数記13:33新共同訳)
荒野で屍を晒してしまう第一の兆候として、まず、立ちはだかっているものを、過大に大きく見る事だ。
ネフィリムとは大昔の名高い英雄たち(創世記6:4)だが、御言葉によると、ノアの洪水で全滅した筈である。
全滅したはずのネフィリムを何故見たというのか? それは彼らの見たアナク人という背の高い現住民を勝手にネフィリム人とし、民も御言葉や約束ではなく彼らの恐怖の産物「脳内ネフィリム」に伝染されたからだ。
荒野で屍を晒してしまう二つ目の兆候として、自分を「いなご」のように卑しく見積もる事だ。
自分達は神がことさらに目を留め多くの奇跡によって救い出した民、地を相続するという約束が与えられたアブラハムの子孫であるにもかかわらず、自らを「いなご」と呼んでいる。
キリストのいのちの代価がつけられた私達をそのように卑下する事は罪である。
私達も信仰によるアブラハムの子孫として、約束されたあらゆる良き祝福を信仰をもって受けるべきである。
恐怖や不信仰、御言葉と違う事の流布といった「死」がはびこる時、いのちで飲み込まなくてはならない。
「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」(ローマ12:15)とは兄弟愛をもって心から互いに愛し合う勧めであって、不信仰な者と共に信仰を捨てる事でも、臆病者と共に臆病になる事でもない。
不信仰や臆病には決して同調してはならず、カレブのように信仰を表明するのである。
「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」(民数記13:30)
カレブは信仰にしっかりと結び付けられていたから、実にあっさり約束の地を勝ち取った。(ヨシ14:12-15)
ヨシュアやカレブのように不屈で強い信仰が無くても、約束の地に入る方法はある。
それは、彼らのように信仰に結ばれた者に、何も言わずについて行く事である。
モーセの後の指導者、ヨシュアについて行った者達の中にも、もしかしたら恐れた者もいたかもしれない。
それでも不平を言わず、進言もせず、ただヨシュアの言う通りに為し、ついて行っただけで約束の地を得た。
モーセはヨシュアを斥候に遣わす時、ホセアという名だったのをヨシュアとした。(民数記13:16)
ホセアの名の意味は「救い」で、ヨシュア(イエシュア:イエス)の名の意味は「主は彼の救い」である。
モーセが約束の地カナンを探らせるにあたってそのように名を変えさせたのは、「救い」を得る源は主である事を教えるためであり、現代の私達にも、まことのイエシュア、すなわち信仰の創始者また完成者であるイエスに聞き従い、彼について行くようにと勧めるためだったのではなかろうか。
約束の地に入れる者と入れない者の違いは、救いを主に置くか、それとも自分に置くかである。
その法則を知って、救いを自分には置く事を止め、神に置き、恐れずに前進する皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!