メッセージ - 約束の地に入れる者2 (民数記14章)
礼拝説教メッセージ音声:約束の地に入れる者2 (民数記14章)
第一礼拝(日本語)礼拝全体音声(メッセージ途中で録音が終了しております):右クリックで保存
第二礼拝(韓国語通訳つき)説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
カデシュ・バルネアは「神聖な砂漠を放浪する」という意味があり、神の子とされる者なら誰しもカデシュ・バルネアを経験し、速やかに抜けて約束の地に入る者もいれば、ずっと抜け出せないまま屍を晒す者もいる。
もし神を信じた今のほうが、そうでなかった時より苦しみに溢れているとするならば、それは、信じると言いつつも実は信じ切っておらず、出エジプトの民のようにどっちつかずのまま砂漠をさ迷っているからだ。
この砂漠から抜け出せる者と、抜け出せない者の違いを、民数記14章から学びたい。
斥候の知らせを聞いた民は、カレブの「必ず占領できる」という言葉に耳を貸さず、悪く言いふらす者達の言葉を受け入れ、夜通し泣き明かし「死んだほうがましだ」「妻子はさらわれてしまう」「エジプトに帰った方が私達に良い」と叫び、ついには「一人のかしらを立ててエジプトに帰ろう」とまで言い出した。(民14:1-4)
カデシュ・バルネアとは、目の前の現実に「自分の資力」で対抗しようとするなら、絶望しかない状況である。
このままでは妻も子供も養えず、一家離散だ。だから神ではなくエジプトに頼っていた生活に戻ろう、というのが、人間の考えうるケチなベストである。このカデシュ・バルネアを速やかに抜け出すコツは、目の前にそびえる現実に対抗する基を、「自分」ではなく「自分と共におられる全能なるお方」へと換える事である。
そのような時にモーセとアロンが真っ先にした事は、民と向き合う事ではなく、全能なる「お方」にひれ伏す事であり(5節)、ヨシュアとカレブは民を説得し、全能なる「お方」が自分達と共におられ、このお方に従うよう勧めた(9節)
しかしそれに対し、全会衆はモーセ達やヨシュア達を石で撃ち殺そう、という判断を下してしまった。
彼らを民が石で打とうとした、まさにその時、主の栄光が会見の幕屋から全イスラエルに現れ(10節)、主は、「この民を滅ぼし、あなたを大いなる強い国民にしよう」と言った。それでもモーセは神に執り成した。
13節から19節まで続くモーセの執り成しに、「あなた」という言葉が10回も出て来る事は、注目に値する。
民にも少しはいい所があるでしょう、とか、民がかわいそうだ、ではない。「あなた」の栄誉のため、「あなた」の約束の故に、民を滅ぼさないで下さい、と言っているのだ。
私達は何かと自分や他人の事を挙げて祈りがちだが、自分や他人の問題は脇に置き、まず主の前にひれ伏して、主の栄誉・主の御言葉を第一にして祈る、その祈りこそが、聞かれる祈りである。
主は確かにモーセの執り成しを聞かれ、滅ぼす事を思い留めて下さった。しかしそれは、民が選択した事の責任を見過ごす事でも、取った行動に対する実を自ら刈り取る事から逃れる事でも無い。
主が生きており、栄光が全地に満ちている以上、自分の蒔いた種は必ず自分で刈り取る事になり、主の栄光と徴を見つつ、なお御声に聞き従わない者は、約束の地に入れないと宣告された。(民14:21-23)
宣告された時に悔い改めれば、まだ赦されたかもしれない。しかし民が荒野で死ぬ事が決定的となってしまったのは、民が主の栄光を見、その戒めを聞きながらも、なお「つぶやいた」からだった。(27節)
主は幾度も栄光を見せ、戒めたのに、それでなおもつぶやくなら、自らがつぶやいた通りになってしまう。
信じ切れず恐れ退いて右往左往し、信仰の一歩を踏み出せないでいるキリスト者ほど惨めな存在はない。
キリスト者は、信じて前進すればこそ約束された良き地に入り、豊かな祝福と命を楽しむ事ができるのだ。
以上学んできた事の結論として、約束の地に入れない者とは、全能なる主を信ぜず、信仰者の勧めに耳を貸さず、主に戒められても、なおつぶやく者である。
それに対し、約束の地に入れる者とは、救いの源は自分ではなく主とし、信じて前進する者である。
「私達は、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。」(ヘブル10:37-39)
今、皆さんには信じなさい、と勧めます。信仰によって前進し、約束の地に入り、豊かな祝福といのちを楽しむ皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!