メッセージ - 徹底的な他力本願(ローマ3:9-22)
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韓国語通訳有
ユダヤ人は、律法が委ねられているという点で他の民族より優れているが、しかし神の視点から見れば全ての人に罪があり、ユダヤ人だからと言って優れている点は何も無い。
義人はいない。一人としていない。
神を熱心に求める者は、いない。
故に人は、一方的な恵みによる赦しが必要なのだ。
福音とは徹底的な「他力」本願であり、その「他力」の源は、イエスキリストから来る。
神の義はイエス・キリストの信仰に拠り、それは信じる者全てに与えられ、そこには何の差別も無い。(22節)
口語・新改訳は、22節を「イエス・キリストを信じる信仰」と意訳しているが、原文も英訳もここは「イエス・キリストの信仰」である。
神が義とするのは、イエス・キリストの信仰であって、人間の側の信仰ではない。
だからこそ、どんなに弱い人でも、貧しい人でも、知恵の無い人でも、信じる全ての者に救いの希望はあるのだ。
ヨシュアとカレブが約束の地に入れたのは、優れた戦闘能力があったからでも知恵があったからでもなく、単に、信じたからである。
彼ら以外の者達は、立ちはだかる障害に対して「自分」を比較したが、二人は「自分達の内にいます万軍の主」とを比較したから、勝てると確信したのである。
モーセも民の執り成しをする時、「民に」少しはいい所があるでしょう、「民が」かわいそう、等、人間の側の何かを押し出す事は全く無く、ただ「あなた」の栄誉のため、「あなた」の約束の故に、民を救って下さい、と神に執り成している。(民数記14:13-19)
結局救いは自分の何かではない。
救いは、100%イエス(神は救い)というお方に拠るのである。
「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。
行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」(エペソ2:8,9)