メッセージ - 祈りの家の喜びの祝い(イザヤ56章、マタイ21:12-17)
礼拝説教メッセージ音声:祈りの家の喜びの祝い(イザヤ56章、マタイ21:12-17)
第一礼拝(日本語)礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝(韓国語通訳つき)説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
イザヤ56章によると、祈りの家の喜びの祝いに連なる事が許される者とは安息日を守る者で(2,4,6節)国籍や立場は関係無く、宦官であっても息子・娘達に勝る分け前と名が与えられ、絶えることの無い永遠の名が与えられ、異邦人であっても聖なる山に連なり、いけにえ(祈り)は受け入れられ、祈りの家で楽しむ。
祈りの家に行く事の楽しさ、喜ばしさの味を占めた者は、たとい仕事が忙しくても、疲れても、集まってくる。
祈り会に出ると一日の疲れが吹っ飛ぶし、皆と遅くまで交わって教会のベンチで寝るなら、柔らかいベッドで寝るよりも爽やかにリフレッシュされる。そのため最近、金曜祈祷会で泊まる人が増えている。
兄弟姉妹が一つになって共に住む所には、主が真ん中におられ、とこしえの祝福を命じておられるからだ。
主は散らされた者達を集める神であり(8節)、なんと、野や林の獣にも食べに来いと命じておられる。(9節)
そこには見張り人がいる(9-12節)が、盲目でおしの犬で、夢を見て眠りを貪り、貪欲で、足る事を知らない。
彼らは悟らない牧者で、自分勝手な道・自分の利得に向かい、自前のぶどう酒を持参し、酒を勧め合う。
祈りの家を見張るはずの牧者達が、このように利得を貪り、霊的に眠っているなら、主はどうされるか。
「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」(マタイ21:13)
主がそのように強制力を行使してまでして怒ったのは、主が聖と定めた「祈りの家」で、人間による売り買いをはびこらせ、しかも祈りに来る人達の、尊いささげものを、自らのために搾取したからだ。
主が忌み嫌われる事は、主が聖だと定めた事を、私たちも聖とするべきなのにそうしないで、人間的な汚い欲望や教えを混ぜ込み、不純なものにしてしまう事だ。
パリサイ人たちは安息日を聖とする代わりに、働いてはならない事を強調して不自然なまでの規則で埋め尽くし、アブラハムの娘が解放される事から阻んだように(ルカ13:16)、人を救いから阻んだ。
主は、聖徒達の尊い祈りや捧げもの、聖徒達の御言葉を守ろうとする気持ちを利用して逆手に取ったり、それを搾取して私腹を肥やす者がいたら、その両替台や腰掛は倒され、その者達は追い出される。
祈りの家を見張るはずの牧者達が、不純な有様でいると、主はそのようにされるのである。
主が人の薄汚い欲望の座や両替代を引き倒した後、主の元に集って来たのは、目の見えない人や足の不自由な人達で、主は彼らを受け入れ、癒して下さった。
主が受け入れるいけにえは、砕かれたたましい、砕かれた、悔いた心である。(詩篇51:17)
主は低くへりくだった者を受け入れ、癒して下さるのだ。
また、そこにいた子供達は「ダビデの子にホサナ」と叫んでいたが、それを聞いた祭司長、律法学者達は怒った。それは、子供が賛美を口にするなど不敬だ、おこがましい、というのである。
しかし主は、小さくなった者達の賛美をこそ、受け入れてくださるお方だ。
「イエスは彼らを後に残し、都を出て、ベタニヤに行き、そこに泊まられた。」(17節)
ベタニヤには「歌の家」「病む者の家」あるいは「貧困の家」というヘブライ語の意味がある。
祈りの家を不純なものとしてしまった無能な牧者たちが悔い改めず、むしろ主に怒りを燃やすようなら、主は放って置かれ、そこを出てベタニヤ、即ち小さき者の歌う家、病む者の家、貧困な者の家へと宿られる。
主が宿られるその時、荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。(イザヤ35章)
足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れる。
そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれ、汚れた者はそこを通れない。
楽しみと喜びがついて来、嘆きと悲しみとは逃げ去る。
へりくだった者となって主を宿し、このイザヤ35章の祝福にあずかる皆さんでありますように。