メッセージ - 割礼の徴(ローマ4:1-8)
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韓国語通訳有
罪が覆い隠され、主がその罪を認めない人の幸いは、何処から来るのだろうか。
それは、割礼によってではなく、無割礼だった時の信仰によってである。
アブラハムは無割礼だった時、彼の信仰が義とされた証印として、割礼の徴を受けた。
「それは彼が、無割礼のままで信じた全ての者達の父となるためであり、彼らにもまた、その義が認められるためである。」(11節)
そもそも、割礼はなぜ男性器という部位に為されるのだろう。
アブラハムに割礼の徴が与えられたのは99歳の時、人のいのちの力としての望みが、費えた時だった。
主は、人の望みが尽きた時に「わたしは全能の神である」と言われ、もはやいのちを生み出す望みの無くなった時に「あなたをおびただしくふやそう」と仰せられた。
さらにダメ押し的に、いのちを生み出す器官たる男性器の肉を切り取るという割礼を命じられ、しかもそれはアブラハムだけでなく彼のまだ見ぬ子孫達にもそうするようにとの事だった。
実際、アブラハムにはその次の年に子が産まれた。
そしてその子孫達すなわち割礼のある者達は、神は全能であり、いのちも救いも力も祝福も、神から来る、という事を、そのしるしを見るたびに思い起こす事だろう。
外見上のからだの割礼が割礼なのではなく、御霊による心の割礼こそ割礼である。(ローマ2:28,29)
いのちも、救いも、力も、祝福も、全能なる神から来ると信じる私達こそ、アブラハムの子孫である。