メッセージ - 密かな主との交わり(ヨハネ7:1-18)
礼拝説教メッセージ音声:密かな主との交わり(ヨハネ7:1-18)
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イエス様の兄弟達は、イエス様が公に有名になろうとしているのだと勘違いしていて、仮庵祭というユダヤの祭りが近づいた時、祭りの時にユダヤに登って行って、公に自分のわざを行うよう勧めた。(ヨハネ7章)
兄弟としては、長男が有名になれば鼻が高い、という思いもあったかもしれないが、イエス様の目的は有名になる事ではなく、イエス様が私達の主となる事である。
だからイエス様は彼らに、「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつでも来ている」と答えられた。(6節)
「わたしの時(カイロス:相応しい時機、頃合)」とは、イエス様の支配の時、すなわち、十字架で死なれ、葬られ、3日目に復活し、天に上られ、天の王座で支配される時である。
イエス様は、カナの婚礼の場でマリヤにも「わたしの時はまだ来ていない」と言われたが、それはマリヤがイエス様を主としてではなく、子として、自分よりも下として見ていたからで、イエス様を救い主としていない限り、主の働かれる時は来ておらず、イエス様が働ける余地も、全く無い。人が、自分の思い、意思、感情が主体となっているなら、人の時がいつでも有効になっているため、主の時は、その人にとって、無効である。
世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。(7節)
イエス様は、世の行っている業は「悪い」と証する。すなわちイエス様の言われる所は、世には罪があり、呪いの元にあり、いずれは滅びに至る、というもので、そこから唯一救い出せるのが主イエス様である。
しかし世の人はそんな事は聞きたくなく、人々は教師を換え、好き勝手な教えに飛びつき、互いに空想話に逸れて行って真実から目を背けるようになる。(2テモテ4:3)
この時のイエス様の兄弟達のように、世に属し、世に迎合している人を、世は憎む事はない。
しかしイエス様について行く者は、イエス様と共に世のものではなくなるため、世はその人を憎む。
「あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」(8節) イエス様は、あなたたち自分達を称えあうような「人の祭り」には、どうぞ好きに登っていきなさい、しかしわたしはそんな祭りには登って行きません、と言っている。
しかし、兄弟たちが祭りに上って行った時、イエスご自身も内密に上って行かれた。(10節)
祭りの前半の3日半は、イエス様が公には姿を見せず、人々は宗教者を恐れ、イエス様についてひそひそ話しており、イエス様に関する評価は2分していて、ある者は良い人だ、ある者は惑わしている、と言う。
このように、イエス様が表立っていない期間、人々はイエス様について、第3者的に良し悪し意見をなすが、そこにはイエス様はおられない。
しかし7日の祭りの半ばを過ぎると、イエス様は宮に登り、公然と教えられる。
イエス様の言葉は、自身から出る事ではなく、神様から出るものであり(16節)、神の御心を行おうと願う者は、その教えがどこから出ているのかが分かる。(17節)
「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。」(18節)結局、人が自分の栄光、人間の栄光を主体として求めるなら、主は働かれる事は無い。しかし、主の栄光を求める者は真実であり、不義は無い。
7の半分(3日半、3年半)という数字は聖書に良く登場する。その期間は艱難がある(黙11:2、ダニ7:25)が、主に親しい者達は、密かな所で主と会い、匿われ、養われる。(黙12:6,14)
「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」(ヨハネ14:20)
世には見えない、密やかな主との交わりに入り、その守りに預かる皆さんでありますように。